あたしの彼はご主人さま 第二部
彼とあたしの嘘とキス -5

 世界と地面はふわふわしたまま通り過ぎて、いつのまにかあったかくなって桜が咲いて、そしてあたしは高校三年生になった。正式に受験生になったわけで、それは全然嬉しいことじゃないけど、でも今までも地味に勉強をしていたから、先生にも今の成績をキープしておけば大丈夫だって言われた。それほど生活は変わらなかったけど、お付き合いしている人がいなくなったら自分ひとりの時間が変に増えてしまって、でも浮いた時間を全部勉強に当ててもつまらないので、アルバイトをすることにした。近所のスーパーのお惣菜屋さんで週に一回か二回、土曜と日曜だけ。でも休みの日に独りで部屋にいるのはイヤだったから、ちょうどよかった。一緒に働いているパートのおばさんにお料理の作り方を教えてもらえたり、残りものを分けてもらえたりと、あたしにとってすごくいいアルバイトだった。
 バイト代は半分は貯金して、もうあと半分は好きなように使うことに決めた。ママは最初あたしがアルバイトしたいって言ったときは、受験生なのにってお小遣いが足りないなら増やしてあげるのにってちょっと渋い顔をしたけど、でもあれ以来あたしの思う通りにさせてあげようって思ってくれてるみたいで、結局は学校へ出すアルバイト許可書にサインをしてくれた。
 だからその日もいつものように、出たばかりのアルバイト代が入った封筒を持ってあたしは行きつけの本屋さんに行った。参考書を選ぶついでに経済関係の雑誌を立ち読みするのが、本屋さんに行ったときのあたしの新しい習慣だった。
 今まで全然知らなかったけど、経済雑誌というのは週刊誌、月刊誌、そして季刊誌もあわせると結構な数があって、そして毎月どこかの雑誌に必ずと言っていいほど『結城』関連の話題が載っていた。あたしが知らなかっただけで、ユーキさんのお家はすごく大きなグループ会社らしい。有名な銀行やホテル、デパート、タクシー会社、身近なところではレストランやレンタルショップ、カラオケボックスなんかに実は『結城』関連会社があったりして、その中には家の近所の回転寿司のチェーン店なんかもあったりして、本当にびっくりした。
 経済雑誌という名前だけで、あたしはそれが難しい堅苦しいものだと思い込んでたけれど、意外にも結構砕けてたりする。『女子高生にハヤリを教われ!』なんてタイトルで、女の子に話をきいて、仲間内で流行ってる物を集めてそれがどうして流行っているのかを分析したりとか、ぱらぱらめくってると面白いページがときどきある。えっちなコラムなんかも載ってたし。
 そっちの業界ではユーキさんはそれなりに名前が通っているみたいで、ときどきどこかの雑誌で『結城和真』の文字を見る。好意的な文章だったり、興味本位の悪意的なゴシップだったり、いろいろだけど。
 一度だけ、カラー写真付きのユーキさんのインタビュー記事を見つけて、普段は立ち読みで済ませることが多いのだけれど、その雑誌は迷わず買った。勉強してる振りでママの眼を盗んで、何回も何回も、覚えるくらいその記事を読んだ。
 久し振りに見たユーキさんは写真写りが悪かったからかもしれないけど、頬がこけて見えるくらい痩せてて、ちゃんと食べてるのかなって感じだった。ユーキさんのことだから、またハムやチーズでワインを飲んで、それで晩御飯にしてるんじゃないかなって。大学にも通いながら仕事をしてるから、寝る暇ももったいないとか書いてあって、それで忙しくて痩せちゃったのかもしれないけど、大丈夫かな、身体壊さないかな。
 インタビューの内容は、経済の専門用語らしいアルファベットやカタカナが多くて、意味はよくわからなかったけど、でも、ユーキさんはすごく頑張ってるんだなあって、みんなに認められてるんだなあって思って嬉しかった。でもあたしは、もうこんな記事でしかユーキさんの今を知ることができないような存在なんだと、そう思い知らされたような気もした。
「やっぱりさびしい、かな」
 あたしが望んだことだけどあたしが決めたことだけど、本当はさびしい。





 いつもの棚、いつもの雑誌。
 車やバイクそれにパソコンなんて男の人向けの雑誌ばかりで、だから周りにいる人も男の人ばっかりで。そんな中うろうろする制服姿の女子高生ってちょっと浮くかも。そんなことを考えてためらっていたのも最初のうちだけで、今じゃなんでもない。あたしだってよっぽど暇なときじゃないと他人の行動をずっと見たりなんかしないし、だから誰もあたしのことなんか見てない。ただ、男の人の背中の隙間から見慣れたロゴを探して一歩づつ歩く。
 ――あった。
 見つけたそれは、あたしが最初にユーキさんのことを知った雑誌。ママがお勤めしてる会社が発行してるものだった。だからママに言ったら割引価格で手に入るのかもしれないけれど、でも多分ママは嫌がるだろうから、だからこうやって隠れてこっそり探す。
 例の、ユーキさんにとっても好意的な記者さんがよく結城関連の記事を書いてるから、ママの会社の雑誌があたしの一番のお気に入りだった。記者さんがどんな人なのかちょっと気になって一度訊いてみたこともあるけど、でもママは部署が違うからどんな人なのか全然知らないって言ってた。
 経済の雑誌だからっていつもいつも結城グループの話が載ってるわけじゃなくって、しかも後継者がどうのこうのって話は最近はあんまり出てこなくなったから、ユーキさんの名前を見る機会は減ってきてた。だから久し振りにその文字を見たのは嬉しかったような気が一瞬だけしたけど、でも。
 ――なに、これ。
『結城財閥、分裂の危機か? 後継者抗争激化!』
 表紙に太い赤い文字で書かれた物騒な言葉に、どくっと心臓が鳴った。立ち読みする勇気もなくて、でも見なかったことにすることもできなくて、だからあたしはその雑誌を素早く手に取った。もらったばかりのアルバイト代の入った封筒から千円札を一枚抜き出して小走りにレジへ向かう。返された小銭をお財布に戻す手間さえ惜しくて、震える手のひらに深く握りしめた。走るような早足で本屋さんを飛び出して、壁の隙間に隠れるように立ったまま紙袋を破って中身を出して、急いでページをめくる。

 結城財閥、後継者選び最終局面!
 揺れる結城グループ!
 対立深める、王道経営者長男VS改革的手法者次男。
 来月の創立百二十周年がXデーか?


 ワイドショーみたいな、センセーショナルな嘘みたいな文字が並んでいた。
「なに、これ……」
 記事は、お母さんの違うお兄さんとユーキさんが修復不可能なほどに揉めてて、今やそれは両方についた勢力の争いに発展してしまって、グループ全体を巻き込んでの騒ぎになっているのだと書いてあった。まるで会社内で戦争でも起こりそうな雰囲気だと、どちらかが消えるしか事態は収まらないだろうと、興奮したような調子で書いていた。
 どちらかが消える?
 ユーキさんが、いなくなっちゃう?
 ケータイを取り出して電話をかけようとして、番号はあの日に消してしまったことを思い出す。一瞬迷って、でも、あたしは駅に向かって駆け出した。定期を通すのももどかしい勢いで改札を走り抜けて、発車間近の電車に乗り込む。ドキドキする心臓を押さえてなんでもない振りをしながら、ドアの上に貼られた路線図を眺めた。ユーキさんのマンションの最寄駅まで五駅。十三分と少し。
 あとから思えば、もうちょっと落ち着いて考えてから行動すればよかったのだと思うけれど、でもこのとき、あたしは何にも考えてなかった。ユーキさんのことしか考えてなかった。
 それ以外のことなんて、どうでもよかった。

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