あたしの彼はご主人さま 第二部
彼とあたしの嘘とキス -11

 そのあと何回も、今までの時間を取り戻すようにあたしたちはセックスを続けた。場所を替える余裕もなく、薄いバスマットの上で快楽を貪り合った。
 彼もあたしも、結局何回イったのかもわからない。ただ気持ちよくて、でもそれも本当に気持ちいいのかどうかもわからないほどに混乱しながら、あたしはユーキさんをユーキさんはあたしを求め続けた。
 激しい快感の嵐の中でやがてあたしは力尽き、意識を失った。次に気が付いたとき、そこはバスルームでもいつものソファでもなかった。あたしが寝ていたのはやわらかなベッドだった。
 窓一面を覆うような大きなカーテンとスチール製のスタンドライトが目に入る。茶色を基調にした、落ち着いた部屋だった。その一角にはパソコンの乗った机と本棚が並んでいて、書斎のような雰囲気を漂わせていた。おとなの部屋。そう言いきっていいような、そんな感じで。
「ここ、は?」
 周囲を見渡そうとゆっくり起き上がると毛布が胸から落ちた。その下から、見慣れた自分の肌が現れる。ちょっと小さ目の胸と、そこに残ったいくつかのキスマーク。
「ちょ、な、なにこれは」
 慌てて毛布で身体を隠す。どうやらあたしは素っ裸で寝ていたらしい。嘘みたいにふわふわした手触りの毛布は、素肌に直接当たってても全然違和感を感じないほどにやわらかいけど、でも普段はちゃんとパジャマを着てるから、なんか落ち着かない。
「んー……どうした?」
 うめくような声が聞こえて下を向くと、そこにはあたしと同じく裸のユーキさんが眠っていた。顔をしかめながら腕を伸ばしてくる。茫然としながらもその手を取ると、強く握り返された。胸の中に引っ張り込まれる。
「ここ、どこ?」
「俺の部屋」
 それだけを言うとユーキさんはもう片方の手で枕元の腕時計を探り寄せて、その文字盤をしょぼしょぼした目で見た。眉をひそめて二秒ほどそれを眺めて、そしてぽいと無造作に放り出した。
「まだ時間あるから、もうちょっと寝させて」
 呟くように言いながら、彼はあたしを抱きしめて眼を閉じた。
「ね、ねえ、ユーキさんっ……」
「あとで送って行くから。お願いだから、もうちょっとだけ……」
 聞き取り難いくぐもった声でそれだけを言うと、ユーキさんは穏やかな寝息を立て始めた。でもあたしは、ユーキさんの胸に頬を当てた体勢で抱きしめられて、お腹の辺りにユーキさんのが当たってたりして、ドキドキで眠るどころじゃない。
 ――そっか。
 ユーキさん、学校とお仕事の両立で眠る暇もなかったんだっけ。そんなに忙しかったのに疲れてただろうに、帰ってきてくれて身体洗ってくれてえっちしてくれて、そしてあたしをここまで運んでくれたんだ。
 あたしのため?
 ねえ、それって、あたしのためだって思ってもいい?
 じわっと涙が沸いてくる。眼を閉じて胸に頬をすり寄せた。
 彼の心音を聞きながら、あたしは随分前のあのインタビュー記事のことを思い出していた。一日の睡眠時間は移動時間次第だとか笑って答えていて、あたしは全然笑いごとじゃないとか思ってちょっと腹を立てたり心配したりしてたけど。でも当たり前だけど、しんどかったのはユーキさん自身だったんだから。あたしが思っていたよりずっと大変だったんだと思う。
 眠る暇もないような一日が日常って、どんな感じなんだろう?
「ごめんね。あのとき、嘘ついて」
 大好きなのにひどいこと言って、ごめんね。
 あたしはユーキさんのためだと思ったけど、でもあたしの取った行動が彼にとってよかったかどうかはわからない。あたしが彼にとってどんな存在なのかもわからない。ユーキさんが本当はあたしをどう思ってるのかもわからない、けど。
 でも、あたしのことを『俺の女』って言ってくれたから。あたしのことで怒ってくれたから。キスしてくれたから。抱きしめてくれたから。えっちしてくれたから。今も、ここに、あたしの隣にいてくれるから。
「だいすきだよ」
 呟くようにそれだけ言って目の前の広い胸に軽くキスした。彼の匂いと体温と肌と寝息がとても心地よくて、このままが永遠に続いたらいいのにって思った瞬間、涙がこぼれた。



 いろいろと考えているうちに、あたしはいつのまにか眠ったらしい。髪を撫でられる感覚で目が覚める。ゆっくり目を上げると、そこにユーキさんがいた。
「おはよう」
「おはよ……」
 ぼんやりと頷き返すと、ユーキさんはにっこり笑って、そしていきなりぎゅっと抱きしめてきた。顔を裸の胸にぎゅっと苦しいくらいに押し付けられて、思わず暴れる。
「や、やめっ! 鼻がつぶれる〜!」
「ああ、ごめん」
「なんなのよー、もうー」
 ユーキさんの力が緩んだ隙に強く胸を押し返して離れた。ぶつぶつ文句を言いながら、本当に潰れたんじゃないかと思ったくらいの鼻をつまんでこする。
「夢だったんだ。千紗ちゃんに、おはようって言うのが」
 突然の言葉に驚いてあたしは顔を上げた。あたしをじっと見ているユーキさんのその眼に何も言えなくなる。息が詰まるような数秒のあと、ユーキさんは眼を伏せるようにあたしから視線をそらした。
「あれから、ずっと考えてたんだ」
 言いながら、ユーキさんはゆっくりとベッドの上に身を起こした。つられるようにあたしも起き上がる。胸まで毛布を引き上げて身体に巻きつけてそしてユーキさんを見たけど、ユーキさんはあたしを見てなかった。お腹の前で手を握り締めるように組み合わせて、そしてその指をじっと見つめていた。
「俺が悪いのはわかってたし、千紗ちゃんが俺を嫌いになるのも無理はないと思った。騙してたって、嘘ついてたって言われても仕方ない。いろいろと黙ってたのは事実だし」
 ぐしゃぐしゃと乱暴に髪を掻き上げて、そしてユーキさんは深い溜息をついた。
「仕事で忙しくなれば思い出さなくなるかとも思ったけど、それでも駄目だった。諦めきれなかった。好きだった。千紗ちゃんがずっと好きだった。千紗ちゃんが通るんじゃないかって、もしかしたら見られるんじゃないかって、何度か学校の近くまで行ったこともある。……ストーカーみたいだよな」
 ははは、と乾いた声で笑うと、ユーキさんは顔を上げた。真正面からあたしを見るその眼にその強い光に、金縛りのように動けなくなる。
「バカ兄貴のせいで、こんな目に遭わせた挙句に言うことじゃないってわかってる。俺は身勝手だ。自分のことしか考えてない。千紗ちゃんのことなんか何も考えてない。それでも俺は、もうこれ以上は耐えられない」
 ユーキさんは唇を噛んで強く目をつぶって、そしてゆっくりとまぶたを引き上げた。
「約束する。絶対に、なんとかする。だから――」

 他の男に心惹かれたりしないで。他の男に抱かれたりしないで。
 迎えに行くから。絶対に迎えに行くから。
 わがままなのも自分勝手なのもわかってる。千紗ちゃんに迷惑をかけてるのもわかってる。それでも俺は、千紗ちゃんじゃなきゃ嫌なんだ。千紗ちゃんが好きなんだ。





 昨晩のうちに連絡はしてあったらしく、チャイムが鳴り終わるよりも先にママは玄関ドアを開けた。一回だけママはあたしのほっぺたを叩いて、そして抱きしめてくれた。心配したんだからねと半泣きの声で怒られて、あたしはただごめんなさいと言うだけだった。ユーキさんはママが何かを言うたびに、申し訳ありませんと繰り返して、そして何度も何度も頭を下げていた。
 最後には怒り疲れたママがユーキさんに根負けして、今回だけと渋々頷いた。でも他のことをちゃんとしないうちは、二度と千紗に近寄ることは許さないからと、きつい口調で言った。多分、婚約者がいることとか、それをあたしに黙っていたこととかを言ってたんだと思う。ユーキさんは神妙な顔でママの言葉に頷いて、そして頭を下げながら帰って行った。
「バカだなあ」
 涙でぼやけた視界を遠ざかって行く一台の車を、あたしはじっと見送った。遠く遠く、豆粒くらいにまで小さくなって、周囲に混ざってどれだかわからなくなっても、それでもまだ見送った。
「ホントに、バカだなあ……」
 ユーキさんは、あたしがユーキさんを好きかどうかもわかってないんだ。あたしだってユーキさんじゃなきゃイヤなの、わかんないんだ。好きだって何回も言ったのに。キスだって、えっちだってしたのに。一緒に眠ったのに。それでもわかんないのかな。男の人ってそういうもんなのかな。
「ユーキさんの、ばか」
 あんなバカな人だと思わなかったけど、でも。
「待ってるよ。ずっとずーっと待ってる。待ってるから」
 早く、迎えにきて。おばあちゃんになっちゃう前に。





 結局、あたしは妊娠してなかった。
 一週間ほど生理が来るのが遅れて、それで実は結構心配したりしてたけど、大丈夫だったみたい。あのときは半分は勢いだったけど、でもユーキさんの赤ちゃんだったら欲しいかもって思ったのも事実だったから、別に後悔はしてない。でも今度するときにはちゃんとつけようと思った。あのドキドキは、かなり精神的によくないから。
 あの朝帰りの日から、あたしは習慣をちょっとだけ変えた。意識して経済雑誌を見ないことにした。絶対に迎えに行くからって言ったユーキさんの言葉を信じたかったから、だから、変な情報を知りたくなかった。彼を疑ったりしたくなかった。
 ユーキさんと話してるってママにバレちゃったらまずいし、それ以上にかけていい時間がわからないから、あたしから電話はしなかった。ユーキさんもかけてこなかった。その代わりのようにユーキさんは頻繁にメールを送ってきてくれた。仕事の合間、寝る前、移動時間、そんなちょっとした隙間を縫うように、一日に何回も短い文章が届く。
 それでもユーキさんの声が聞きたくて抱きしめて欲しくて、何回も泣いた。あたしって不安定だなあって思ったけど、でもそんなときには決まってユーキさんからメールが入る。ユーキさんは実は隠れてあたしのことをずっと見てるんじゃないかなって、そんなことをちらっと考えちゃったぐらい。
 今なにしてるの?
 元気ですか。
 あいたい。すごく、あいたい。
 そんななんでもない言葉がとてもあたたかくて、嬉しくて。
 あたしは運がいい。ユーキさんと出逢えたんだから運がいい。キライだって嘘ついても本当の気持ちを黙ってても、それでもまたちゃんと好きだって伝えられたんだから、大丈夫。あたしたちはきっと大丈夫。あたしはそう信じている。
 窓の外に桜の花びらが舞う。はらはらと、春の風を薄紅色に染める。
 あたしがどんな気持ちでいてもユーキさんが何をしてても、そんなことには関係なく世界は動いて行くんだなあって、そんな当たり前のことを考えながら、クラスメイトの賑やかな声を遠くに聞きながら、あたしは教室の窓からそれを眺めた。
 あたし、ユーキさんが好き。
「大好き。前からずっと、これからもずっと」
 だいすき。

  -おわり-
2005/04/15
  おまけのあとがき
≪もどるもくじつづく
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