あたしの彼はご主人さま 第三部
彼があたしのご主人さま -1

「はじめまして。あなたが和真の想い人?」
 言いながら、その女の人はあでやかに微笑んだ。





 世間で五月病とか言うようになってから少し。あたしは相変わらず地味な受験生として普通に暮らしていた。というのは実は建前で、本当はこっそりユーキさんと連絡を取っていた。
 でも変なところで律儀なユーキさんは『お母さんとの約束だから』と絶対に逢ってくれなくて、つまりメールが電話に変わっただけなんだけど。それでも声が聞けるというのは今までより距離が近くなったような気がする。ユーキさんもそう思っているみたいで、メールなんかじゃ言ってくれなかったようなことも言ってくれるようになった。その延長線としてそう言うことになったのも、まあ自然な流れと言えば……そうなのかも。
 深夜と言うにはちょっと浅めの夜十時半、ママから今日は徹夜仕事だから帰れないと連絡が来た日。あたしは携帯電話を片手に、ジーンズとショーツを脱いでカーペットの上で脚を広げていた。
「指を入れろ」
「はい」
 低くかすれた熱っぽい声に命令されて頷く。糸を引くねっとりした液体を指ですくって人差し指でそこになすりつける。ちゅくちゅくと鳴るのを確認してから、あたしはケータイに短く囁いた。
「千紗のいやらしい音、聞いてください。ご主人さま」
 返事は返ってこなかったけど、でも彼が息を飲む気配はわかる。あたしと同じように、彼も自分でしてるんだと思う。どこなのかなとか、どんな格好なのかなとかちょっとだけ考えながら、あたしはケータイの送話のところをできるだけ近づけた。
 指を浅く入れて掻き回すと、思ったよりも大きな音がする。これだけ離れてるあたしに聞こえるんだから、ユーキさんにはもっと聞こえてる筈。こんなことをしてるあたしをどう思ってるんだろう。いやらしいって思われてるかな。淫乱ってまた言われちゃうのかな。それとも……。
 でもそんなことを考えたのも最初だけで、すぐにあたしはその気持ちよさに飲み込まれて行った。
「あ、あ、んっ」
 腰が揺れる。身体がもっともっとって言っているのがわかる。
 これじゃ足りない、物足りない。ゆっくりと辿っていたひだひだの間から、指が勝手に逸れて行く。あたし、知ってるもの。こっちのほうが気持ちいいって、もう知っちゃってるもの。
「あ、んんっ」
 指先に引っかかった小さな尖りから鋭く流れた快感に、身体がびくっと震えた。
 強くしすぎると痛いから、たっぷりあたしのいやらしい液をつけて、優しくそっと円を描く。本当は、痛いくらいに強くされるのも狂っちゃいそうで結構好きなんだけど、自分じゃ怖くてできない。ひとりえっちはその辺があたしの限界なのかもしれない。でも彼の命令でしてると思うとそれを聞かれてると思うと、すごくドキドキしてきて、いつもより濡れてきちゃう。
「ご主人さまぁ。千紗、気持ちいい、です」
 多分、聞こえてると思う。彼は聞いていると思う。
 あたしがいやらしいことを言うのを聞いて多分、彼も……。
 そう思った瞬間にたまらなくなって、あたしは触っていた指をぬるりとそこに沈み込ませた。人差し指だけじゃ足りなくて、一緒に中指も挿れる。そのまま浅くぐちゅぐちゅと出し入れする。大きく深くえぐるように奥まで挿れて、親指の付け根の辺りでクリトリスを押さえる。身体の内側を強く押し上げるように突いていると、その奥の奥から衝動が近づいてくるのがわかった。ゆっくりと左腕を戻して耳に携帯電話を当てる。
「ご主人さま。千紗、もうイきたくなってきました」
 座っていることができなくなって、あたしはごろりと寝転がった。突き上げる指は、彼のものに比べたら物足りないけど、でも。
「そうか。イきたいか」
 答える彼の息も荒くなっているのが嬉しい。彼もイきそうなんだと思うと嬉しい。
「千紗、ご主人さまと一緒にイきたいです。一緒にイってください」
「ああ、いいぞ」
 低くかすれる言葉を確認してからあたしは指の動きを早めた。身体が、あそこが、ひくひくする。耳に響く彼の乱れた息に、一瞬でその堰が破れた。
「あ、んっ! イ、イく、イくイく、イくっ!」
 耳に吐きかけられるような彼の息遣いが精神的な悦楽を呼ぶ。その快感に押し流されるように、あたしは全身を痙攣させて叫んだ。



「最近?」
「うん」
 短く返ってきた肯定の言葉に、あたしは濡れた手を拭きながら視線を天井に向けた。
 ひとりえっちの直後は、いつもちょっと複雑な気分になる。さっきまでの感覚が身体の奥に残っているのも気恥ずかしい。ユーキさんと一緒だったらその気だるさも嬉しいんだけど。
 ユーキさんはそういうの、どうなのかな。何も思わないのかな。
「毎週テストがあるから、ちょっと大変は大変かな。アルバイトも休みがちだし」
「そっか。両立は難しいよね」
 妙にしみじみ頷くユーキさんは、多分、自分と重ねてるんだと思う。でもあたしはそこそこの点数を取ればいいだけだから、ユーキさんほどの責任も重圧もないし、同じ立場じゃないんだけど。
「まあ、バイトは、あたしがいなくても誰も困らないし」
「そんなことないよ。千紗ちゃんがいたほうがいいに決まってるよ」
 全然わかってないくせになんで断言するんだろ、とは思うけど、でもちょっと嬉しい。ユーキさんはいつだってあたしの味方でいてくれるんだって思って、嬉しい。
「俺も千紗ちゃんと一緒に仕事とか、してみたいなあ」
 溜息混じりのユーキさんの言葉に思わず笑うと、ムッとしたような気配が伝わってきた。多分、唇を尖らせてるんだろう。言ったら嫌がるだろうから言わないけど、ユーキさんが拗ねたときの顔はどこか子どもっぽくて可愛いから、あたしは結構好き。
「なんで笑うの。俺、結構本気なんだけど」
「ユーキさんもアルバイトする? スーパーのお惣菜屋さん、時給七百二十円」
「いや、それでもいいんだけどさ」
 苦笑混じりの声が返ってきた。
 もしも、ユーキさんがスーパーのお惣菜屋さんの店先に立ったら。
 ひらがなで店名の書かれた赤いエプロン姿でジーンズにスニーカー。高野豆腐の煮付けやほうれん草のおひたしの入ったパックを手に、お客さんに向かってにっこり笑うユーキさん。それを想像してあたしはぷっと吹き出してしまった。
「だから、なんで笑ってんの?」
「え、あ、いや別に。なんでも」
 ケータイを少し耳から離して大きく咳ばらいしてから、あたしは取り繕うように、でもさあ、と言った。
「ホントに、そんなことできたらいいね」
「うん、いいよね。しちゃわない?」
 俺の仕事手伝ってよ。
「何言ってんの?」
 とんでもないことをいきなり言い出すユーキさんに思わず笑ったけど、ユーキさんはなぜか引き下がらなかった。
「だって千紗ちゃん、頭いいんだろ。敬正館で成績上クラスだってんだから」
「ムリだよー。あたし、経済とか全然わかんないんだから」
 そう言いながら、でもあたしはちょっとだけ考える。夢見るように思い浮かべる。ユーキさんの仕事中の姿ってどんなのだろう?
 難しそうな本を読んだり書類を見たりしてるんだろうな。ときどきはイライラしたりしながらネクタイを緩めたり、パソコンに向かったり、電話したり。多分、おとなっぽくてかっこいいんだろうな。ちょっと見てみたいな。
 でもそれと同時に、あたしはもう一つ別のことも考えた。
 今ならわかる。今までのあたしが、どれだけ贅沢な時間を過ごしていたか。一緒にいるってそのことがどれだけ嬉しかったか。顔を見ながらおしゃべりできるってことが、目の前のユーキさんと笑いあえるってことが、どんなに素敵なことだったか。
 その時間をなんとも思ってなかった、過去のあたしが羨ましくて悔しい。もしも戻れるのなら、あのときのあたしの頭をこつんと一つ叩いてやりたい。もっとユーキさんに感謝しなさいって説教してやりたい。
「そりゃ、多少の知識は必要だけどさ。でも大丈夫だよ。俺だって最初はなんにも知らなかったし」
 千紗ちゃんなら大丈夫だって。
 その声があまりにも真面目すぎたから、あたしは思わず眉をひそめた。
「本気で言ってるの?」
「うん、結構。よそにバイトに行くくらいなら、俺のところへ来てよ」
 ユーキさんがそう言ってくれるのはとても嬉しいけど、あたしだってできることならそうしたいくらいだけど、でも。
「でも、本当は違うんだよね」
 意地悪かなとも思ったけど、あたしはそれを言った。案の定、ユーキさんは黙り込んでしまったけど。
「ユーキさんは、ホントはあたしと一緒に仕事がしたいんじゃないよね」
 ユーキさんはあたしの能力を認めてくれてるわけじゃない。
 高校生相手に仕事の話をして、学校のレベルがどうとかって問題じゃないくらい、あたしにだってわかる。そうじゃなかったら会社で新人研修なんてする必要ない。千紗ちゃんなら大丈夫って俺の仕事手伝ってってユーキさんの言葉は、そう言う意味じゃなくって、もっと単純な望みが隠れてるだけ。
「逢いたいね」
 言っちゃいけないと思うよりも先に口から滑り出てしまった言葉は、心からの願い。
「――うん。逢いたいね」
 ぽつりと呟くようなユーキさんの声にあたしは息を止める。
「ごめん。もうちょっとだから」
 言いにくそうな苦しそうな響きに、本当は泣きそうになったけど。
「うん。待ってるから」
 信じてるから。
 信じてるから、平気じゃないけど大丈夫。あたしはまだまだ我慢できる。

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