あたしの彼はご主人さま 第三部
彼があたしのご主人さま -9

「確かに、姉さんの名刺だな」
 室内灯に透かして眺めると、ユーキさんは納得したように頷いた。後部座席で彼の肩にもたれてその体温に口元を緩めながら、でもあたしはわざと不機嫌な声を出す。
「あたしの言うこと、信じてなかったんだ?」
「あ、うん。い、いや、そうじゃなくって。でもちょっと……。しかもこれ、プライベート用の名刺だしさ」
 慌てたように早口でしゃべりながら、彼はあたしを強く抱き寄せる。どう考えてもごまかそうとしてるなあって感じだけど。
「プライベート用?」
「うん、そう。ほら、メールアドレスが携帯電話のだろ? 仕事の相手にはパソコンのアドレスを出すから、あの人は」
「ふぅん?」
 そういうもんなのかな。
「千紗ちゃん、大丈夫だった?」
 疑問っぽい言葉を投げ掛けられて目の前にあった名刺から顔を上げた。あたしを見下ろしていた優しい微笑みと目が合って、ドキっとする。ボタンが外れてくしゃくしゃに乱れたシャツのユーキさんは、なんかいつもとちょっと違う感じにカッコいい。男の人がセクシーって、こういう雰囲気を言うのかも。
「大丈夫って、何が?」
「いや、初対面でプライベート用の名刺をもらうって、なかなかあることじゃないから。それに……あの人は、その……」
 もしかしてというか、もしかしなくても多分、あのことを訊こうとしてるんだろう。
 知ってるのかな、葵さんのこと。そりゃ知ってるかな。司さんだって知ってたみたいだったし。葵さんのあの態度からも、隠すつもりとかあんまりなさそうだったし。
 どうしよう。黙っておいたほうがいいかな。というか、あんまり言いたくないなあ。襲われたに限りなく近かったけど、でもあたし、その……何回もイっちゃったし。葵さんってすごくキレイだから、嫌悪感とかあんまり沸かなかったし。でも、もうあんな目には遭いたくないけど。
「葵さんが、どうしたの?」
 なんでもない顔をしようとしてるのに、勝手に胸がドキドキしてくる。ユーキさんって鋭いから、わかっちゃうかも。こら落ち着け、心臓、なんて内心で呟きながら、あたしはじっと彼を見上げた。
「いや、あの人ちょっと変わってて……」
 言い難そうに口ごもるユーキさん。
「変わってるの? どんなふうに?」
 本当のことを言って、ユーキさんが怒り出したらと思うと、怖い。葵さんとまで険悪になっちゃったら、あたしはどうしていいかわからない。
 せっかく、あたしたちの味方になってくれるって言ってくれた人なのに。ユーキさんのお姉さんなのに。でも、ユーキさんに嘘はつきたくない。どうしよう。嘘つくのも本当のことを言うのも、どっちもイヤ。こう言う場合って、どうしたらいい?
「――いや、いい。なんでもない」
 助かったあ。
 思わず吐いてしまった溜息をごまかすように、あたしはユーキさんの胸に頬をすり寄せた。
「ユーキさんって、ヘンなの」
 ごめんなさい、ユーキさん。二度とあんなことされないように気をつけるから、今回だけ許して。心の中で謝りながら、でも口では違う言葉を呟く。
 大きく息を吸い込むと、えっちしたあとの、強い汗とオレンジの混じったユーキさんのにおいがする。汗のにおいって多分イヤなにおいだと思うんだけど、ユーキさんのこのにおいは大好き。そういうのってちょっと不思議。他の人だと絶対にイヤなことでも、ユーキさんにされるなら平気。
「そうだ、それだよ!」
 いきなり叫ばれて跳び上がった。
「な、なにが?」
 やばい。声がひっくり返った。
 でもそれを取り繕う暇もなく、がしりと両肩をつかまれた。何を言われるのかと考えた瞬間、ドドドと音を立てて心臓が早まる。ユーキさんの鋭いまなざしが真正面からあたしを見詰める。後ろめたさから、真っ直ぐに見返すことができなくて、あたしはパチパチとまばたきを繰り返す。
 うわあ、あからさまに挙動不審だ、あたし。
「さっきから気になってたんだ。なんか変だって」
 なにが、へんなの?
 訊きたいけど、怖くて訊けない。聞きたくない。
「なんで、姉さんを葵さんって言うの?」
 は?
「兄貴のことだって、そうだし」
 え?
「俺のことは結城さんって言うのに」
「だって、ユーキさんはユーキさんでしょ?」
 ようやく意味のわかった言葉に確認に近い疑問を返す。言ってることはわかるけど、何を言わんとしているのかが全然わからない。手のひらに変な汗が沸いてくるのがわかる。ユーキさんはあたしの言葉に不服そうに眉をひそめて、優しく睨んだ。
「そりゃそうだけど。でも俺一人が名字って、千紗ちゃん、冷たくない?」
 えっとこれは、もしかして……。
「和真って呼んでよ」
「はえ?」
 間抜けな声を上げたまま、口が閉まらない。高まった鼓動が徐々に弱まって行く。安堵と脱力でぺちゃりと座席に伏せそうになった。あたしのリアクションに驚いたのか、彼の両手が肩から離れる。真ん丸な眼であたしを見てるのがなんとなくわかる、けど。
「どうしたの?」
「ユーキさん、可愛いーっ」
 曖昧に笑いながら力を取り戻すと、妙に真剣な眼と合う。ユーキさんがそんなつまんないこと気にしてたなんて、全然思わなかった。
「だから、『結城さん』じゃなくて」
 子どもみたいなその表情。
 あたしよりずっと年上なのに。おとななのに。おとなの男の人なのに。えっちのときはあんなにひどいことするくせに。ついさっきまでご主人さまだったくせに。
「そんなこと気にしてたんだ?」
「そんなことってなんだよ。重要なんだよ、俺にとっては」
 そういうと、ぷいとそっぽを向く。
 あ。拗ねた。





 あのあと、もう一度えっちして数え切れないくらいキスして、そしてあたしは車から降りた。ゆっくりと、本当にゆっくりと暗闇に消えて行く白っぽい乗用車を見送って涙を拭いて、アパートへ戻った。真っ暗な部屋の灯りをつけて、模試に持って行ってた小さな水筒を洗いながら溜息をつく。
「なんかもう、すごい一日だったなあ」
 午前中は模試で、午後からバイトに行って、帰りに司さんの車に乗せられて葵さんと会って、変なカクテル飲まされてイロイロされちゃって。帰ってきたらユーキさんに司さんと浮気してるって誤解されて、車に連れ込まれて襲われちゃって。でも、誤解が解けたあとはすごく優しかった。髪を撫でてくれて抱きしめてくれて、身体中キスしてくれて、それに……何回もイかせてくれて。
 やっぱりあたし、ユーキさんが好き。
「司さんとも、うまく行くといいなー」
 あたしは、一度お兄さんと直接会って話をして欲しいって言った。勿論ケンカ腰じゃなくって、穏やかにきちんとおとな同士らしい話し合いをする場を持って欲しい、って。
 ユーキさんは、あんなヤツの肩を持つのかとか、あいつが断ってきたら知らないからなとか言ってものすごく渋りながら、でも最後には頷いてくれた。お兄さんのことをどう思ってるのかは訊けなかったけど、でも司さんはユーキさんのことを嫌ってるってわけじゃないって言ってたから、大丈夫かなって思ってる。でもケンカしちゃってもいいな。兄弟ってケンカしちゃうもんだって聞くし、それならそれでもいいんじゃないかな。大丈夫だよね。大丈夫だと、いいな。
 どうか、大丈夫でありますように。
 どんどん不安になって行く思考に思わず溜息をつく。葵さんがあいだに入ってくれないかな。二人ともどうもお姉さんには頭が上がらないっぽいから。だいたい、ユーキさんってちょっと子どもっぽすぎるところがあるよね。普段は落ち着いたおとなの人なのに。えっちのときはひどいこと言うのに。
「わかった。千紗ちゃんの言う通りにするよ。その代わり、俺の言うことも聞いてくれるよね」
 渋々頷いたあと、彼はそんなことを言い出した。明るい笑顔がなんだか逆にドキッとする。そしてあたしに出した要求は。
「俺を和真って呼ぶこと」
 嬉しそうな顔でなんだってそんなことを言うかな。
「だって俺だけって酷いだろ?」
 そんなところで対抗しなくてもって思うんだけど。それに今までの慣れとかあるから、つい言っちゃいそうだし。でもそう訴えると『結城さんって呼んだら、どこであろうともその場でキスするからね』ってにっこり笑って脅された。あの人だとホントにやりかねないから怖い。なんかもう、わがまま放題の子どもってカンジ。
 呟きながら、財布にしまっていた名刺を取り出した。
 ユーキさんにもらった名刺は、葵さんのと違ってビジネス用のものだった。彼はプライベート用のを渡したがってたみたいだったんだけど、でもプライベート名刺って名前と電話番号とメールアドレスしか載ってなくてつまらないから、こっちをもらった。ズラズラと怖いくらいに並んだ肩書きは半分もわからないけど、でもそれだけユーキさんが会社で頑張ってるって証拠なんだと思う。司さんも、ユーキさんは頭いいって言ってたし。みんなそう思ってるのかなって思うと、嬉しい。ユーキさんが認められてるってことがすごく嬉しい。
「でも、執行役員って、何するんだろう?」
 首を捻りながらテレビの電源を入れた。見覚えのない番組と画面の隅に浮かんだデジタルな文字に眼を見張る。もうすぐ、一時?
「うわー、もうそんな時間?」
 日付け、変わっちゃってる。
 慌てて制服を脱ぎ捨てて替えのショーツとパジャマとバスタオルを手にして、あたしはお風呂場へ駆け込んだ。本当は湯船でゆっくり浸かりたかったんだけど、もうシャワーでいいや。簡単に流すだけで。
 しゅわっと肌を強く叩く熱いお湯に、あたしはそっと眼を閉じる。
 大変だったけど忙しかったけど疲れたけど、でもユーキさん……ええと、和真さんと逢えたから、だからすごく幸せな一日だった。

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