あたしの彼はご主人さま 第三部
彼があたしのご主人さま -11

「なによ、さっきから黙って聞いてれば偉そうにっ」
 ずん、と一歩を踏み出すと、あたしは彼女を睨み上げた。
「あたしが迷惑ですって? 冗談じゃないわ、あたしだってあなたが迷惑なのよ。子どもの恋愛ごっこですって? 冗談じゃないわよ。女子高生だからってバカにすんじゃないわよ。あたしだって本気なの。本気でユーキさんが好きなの! 彼のことなんにも知らないって勝手に決めないで! あたしだって知ってるわよ。ユーキさんはサディストで、えっちのときはすぐに縛りたがって、いつもあたしが嫌がる体勢でするのが好きで、こないだなんかこともあろうに――」
「ストップ、千紗ちゃん! そこまで!!」
「なによ、うるさいわね! ――って、ええっ?」
 乱暴に音を立てて開いた車のドアの隙間から飛び出てきたその人影は、見間違える筈もなくて。慌てたようなその声も、聞き間違えるわけもなくて。
「――あ……れ? ユーキ、さん?」
 なんでこんなとこにいるの? なんで、この人と一緒の車に乗ってたの? さっきからずっとそこにいたの?
「頼むから、そんなこと大声で言うのはやめて。凄い内容なんだから」
「だってこの人が、あたしがユーキさんのことなんにも知らないとか言うから!」
「わかった。わかったから、だからちょっと落ち着いて」
 彼女を指差して子どもみたいに駄々をこねるあたしに、長い腕が伸びてくる。そのまま抱き寄せられても、一度動き出してしまったあたしは、止まるつもりなんかなかった。
「やだやだ、あの人に言ってやるんだーっ! あたしだって知ってるもん! ユーキさんのこと、いっぱい知ってるもんっ!」
「わかってる。千紗ちゃんが俺のこと知ってるのはわかってる。だから、今だけお願い。ちょっと黙ってて」
 その言葉通りあたしを黙らせようとして、ユーキさんはぎゅっと強く抱きしめてくる。スーツの胸に顔を押し付けられる窒息寸前の腕の強さに、あたしはじたばたと手足を動かして抵抗を続けた。
「やだーっ!! なによ、ユーキさんのバカっ! あの人の肩を持つの? あの人が好きなんだ、そうなんだ?」
「違う違う。俺が好きなのは千紗ちゃんだけだってば」
「じゃあなんで、あんな人と婚約しちゃったのよ! あたしショックだったんだから! ものすごく傷ついたんだから!」
 道の真ん中で大声で叫びながら、いつのまにかあたしは泣いていた。
 そうだったんだ。あたし、ショックだったんだ。
 ユーキさんに婚約者がいたこととか、それをあたしに黙ってたこととか。いろいろと事情があったから仕方ないんだって自分に言い聞かせてたけど、それでも本当は文句を言いたくて、聞いて欲しくて、でも言えなくて。
「ユーキさんの、バカっ!」
 ぐすぐす泣きながら、鼻水をすする。
「ごめんね。悪かったってずっと思ってた。ごめんよ、千紗ちゃん」
 涙をそのシャツになすりつけるように、胸に頬を寄せた。頭を撫でてくれる優しい手、優しい声、オレンジのにおい。それだけで心が安らいでしまう。
 バカみたい。バカみたいだと思うけど、それでもあたし、ユーキさんが好き。
「……ばか」
「うん。ごめん」
 あたしにそう囁くと、ふっと軽く息を吐いてユーキさんは顔を上げた。その視線の先には例のお嬢さまがいるんだろうと思う。
「えっと、つまり、そういうことで。日を改めて今度そちらに伺って、謝罪と正式な手続きを……」
「バカバカしい。帰るわ」
 ユーキさんの言葉を遮る声と一緒に、何かが跳んできた。
「あんたなんかこっちからお断りよ!」
 ユーキさんの頬の辺りにそれが当たって、いてっとユーキさんが呟いた。
 足元に落ちたそれは、さっきまで彼女がつけていた指輪で。この状況でこの指輪を投げるってことは、きっとこれはユーキさんが贈ったものなんだろうな。やっぱり婚約指輪なのかな。
「このロリコン! 変態! 変質者!!」
 半ば叫ぶようにそう言い捨てると、彼女は足早に車に乗り込んで、あっという間に暗闇の向こうに消えてしまった。



「行っちゃったよー。いいの?」
 真っ暗の道を去って行った車を見送って二秒、あたしは間近の顔を見上げる。あたしの問いかけにユーキさんは軽く目を見開いて、軽い疑問の意思表示をした。
「別に、いいんじゃない?」
 さらっと彼がそう言うのは、あたしは嬉しいけど。
「でも、ホントにいいの? あの人、ユーキさんが好きなんだよ」
 恐る恐るのあたしの言葉に、ユーキさんはくすっと笑った。
「違うよ。あの婚約はある種の政略結婚で、新しい閨閥を作って組織の安定をと考えたタヌキたちが仕組んだものなんだ。利用された振りで利用した俺はともかく、彼女は巻き込まれただけの被害者だ。俺に非がある形で婚約解消できるんだから、一番喜ぶのは彼女の筈だよ」
 彼の真意を計りかねて、あたしはじっとその瞳を見返した。なんのためらいもない表情に思わず溜息をついてしまう。
「なに、その反応。ホントだって。俺この四年間、顔を合わせるたび『あんたなんか』って言われてたんだから」
 だったらなんで、彼女があたしにあんなこと言ったと思うのよ。なんであたしを敵視したと思うのよ。なんであんな顔をしたと思うのよ。なんで中学生からの付き合いだとか言ったと思うのよ。なんであの指輪をしてたと思うのよ。なんで投げたと思うのよ。彼女もちょっと意地っ張りっぽかったけど、それにしたってさっきからずっと聞いてたくせに、見てたくせに、そんなこともわかんないの? ユーキさんってもしかして、恋愛ベタ? 超鈍感?
「彼女、自分では無自覚らしいけど、かなりの女王さま気質でね。中高と、そりゃひどかったんだから。いつまで経っても先輩気取りでさ」
 ブツブツこぼすところを見ると、この十年の付き合いとやらは、あたしが想像したものよりは甘くなかったらしい。サディスト同士だと真正面からぶつかるのかな。あたしはちょっとマゾっぽいからそういうのわかんないけど、でも確かにユーキさんが二人って考えると、怖いかも。本気のケンカになっちゃいそう。
 あ、もしかして。
 ふと思い出したのは、司さんのこと。
 あのとき司さんが言ってた『好みじゃない』ってそういうことだったのかな。司さんもサディストだし、だからかな。葵さんもそれっぽかったし……って、うわあ、あたしの周りってそんな人ばっかり?
「どうしたの、急に。彼女が可哀想になった?」
「そういうんじゃ……ないんだけど」
 優しい声に訊かれて、思考を婚約者さんのことへと戻した。
「でも、ちょっとだけ……気になる、かな」
 先にひどいこと言ったのは彼女のほうだったけど、あたしもかなり失礼だったよね。あれだけ言えば怒るよね。ユーキさんだって困っただろうな。大声で『えっちのときには』とか言っちゃったし。普通、往来で叫ぶ言葉じゃないよね。頭に血が上っていたからしょうがないとは思うけど、でも思い出すと身がすくむ。
 あたしだけが悪いんじゃないもん。あの人もユーキさんも、ひどいんだから。そう自分に言い聞かせても、やっぱり後味悪い。
「何が? どう言う辺りが?」
「なんでもない。ユーキさんってひどいよね。結構悪人だよね」
 ここはもう、責任転嫁。ユーキさんのせいにしよっと。
 ぽふっと抱きついて、シャツの上から触れる肌を強くつねった。あたしの指摘と指先での攻撃に一瞬軽く眉をひそめて、そして彼はふっと笑う。余裕のある顔が憎らしい。
「うん。俺、ひどいよ。かなりの悪人」
 そう言いながらぎゅっと抱きしめてくれる。
「誰を傷付けても平気だよ。千紗ちゃんを手に入れるためなら」
 頬に額に唇に、キスの雨が降ってくる。
 軽く押し当てるような口付けは、回数を重ねるごとに少しずつ深くなってきて。真っ暗で殆ど人通りがないとは言え全然ないわけじゃないのに、そんな道の真ん中で、まるでベッドにいるときみたいな濃厚なキスで。身動きできないくらいにきつく抱きしめられて、ユーキさんのがお腹の辺りに当たるのがわかる。わかるってことは、つまり、その……おっきくなってるってことで。
「愛してる」
 囁く声と同時に首すじを軽く吸われて身体が震えた。流されそうになるのを必死で止めて、彼の身体を押し返す。
「だめだよ、こんなところじゃ」
「う、うん。さすがにね」
 そう言うとユーキさんはゆっくりと顔を上げた。
 目が合って、周囲を見回して、そしてなんとなく二人して笑う。なんだかすごく恥ずかしい。
「じゃあ、とりあえず。ここでもできることだけ」
「え?」
 そっとあたしの身体を放すと彼は一歩下がって、そして片ひざをついた。
「え、ちょ、ちょっとちょっとちょっと」
 一人で慌てるあたしをひざをついたまま見上げて、彼はおかしそうに笑った。
「本当は、日にちも場所も選びたかったんだけど。でも早くしないと、千紗ちゃんを誰かに持って行かれそうで、不安で」
 ゆっくりと伸びてきた腕があたしの右手を取って、そして。
「高見千紗さん」
 芝居がかった仕草とはうらはらに、ひどく真面目な視線に射抜かれて動けなくなる。彼があたしの手の甲にキスをして、そして。
「俺と、結婚してください」

 別に、今すぐ返事をとか、そういうんじゃなくて。
 千紗ちゃんが高校を卒業してからの話だしね。それまでに俺は誰にも文句を言わせないくらい仕事を頑張って、周囲を納得させてみせる。それから、千紗ちゃんと結婚させてくださいって、お母さんにお願いに行くよ。
 千紗ちゃんと一緒にいたいってのは俺のエゴだけど、でも、もしも千紗ちゃんが嫌じゃなかったら。俺でもいいって思ってくれたら、そしたら。
 ――結婚、してください。


 初めて会ったとき。
 初めてえっちしたとき。
 あたしが好きなのはユーキさんなんだって自覚したとき。
 初めて奴隷として組み敷かれたとき。
 ユーキさんに婚約者がいるって知って、泣き暮れたとき。
 ユーキさんのためにと、別れを告げたとき。
 後先も何も考えずに、ユーキさんのマンションに駆け込んだとき。
 泣きながら大好きだって伝えたとき。
 司さんとの浮気を疑われたとき。
 婚約者さん相手にひどいことを言ってしまったとき。
 そして今、あたしの前にひざまずくユーキさんがいる。
「ユーキ、さん……」
 全ての記憶が光景が、頭の中でゆっくりと、そして高速で回る。視線の高さを合わせるように道路にひざをついて、震える指でユーキさんの頭を抱き寄せた。
「あたし、ユーキさんが好きだよ」
 普段はおとななのに変なところで子どもっぽいわがままを言うところも、普段は優しいのにえっちのときは平気でひどいこと言うところも。
「うん、俺も。俺も、千紗ちゃんが好き。愛してる」
 低い声と深い口づけ。息もできないくらい強く抱きしめられて、苦しくて、でも嬉しくて、どうしようもなく涙が溢れてくる。
「愛してる。一生、大切にする。約束するから」
 短くて固い髪も濃い眉も、一重の優しい瞳も、頭を撫でてくれる大きな手も、少しざらざらした肌も、太い首とちょっとゴツめのあごも、泣きそうな笑顔も。広い胸に頬を寄せると、汗とオレンジのにおいがするところも。
「だいすき」
 小さく呟いて、そしてあたしは目を閉じた。

 ――これからもずっと、彼だけがあたしのご主人さま。

  -おわり-
2005/07/01
  おまけのあとがき
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