あたしの彼はご主人さま 番外編
彼女と浴衣と、夏の日と -1

 なんで、こうなっちゃったんだろう?
 内心溜息混じりに千紗は顔を上げた。
 等身大の鏡に映るのは、白地に淡いピンクで描かれた桜模様の浴衣を着た、自らの姿。白地に薄紫色と薄桃色で交互にラインの入った帯は大きなリボン型に結ばれている。普段はまっすぐ肩に落ちているだけの髪は高く結い上げられ、花を形どった半透明のかんざしで飾られていた。髪の流れに沿って差し込まれた細い髪飾りにはラインストーンが嵌め込まれており、動くたびにきらきらと光る。
 嬉しくないことはないんだけど、でも。
 手早く店員が外していた値段タグを思い出し、千紗は大きな溜息をついた。
 浴衣、帯、浴衣用の下着、髪飾り、バッグと下駄。
 これ全部って、いくらぐらいしたのかな。なんでいっつもこんなことするんだろ。そりゃあ、浴衣は実はちょっと欲しかったんだけど、だから嬉しいけど、でも……。
「千紗ちゃん? どうしたの?」
 畳敷きの店内の一角に置かれた、時代がかったついたての向こうから声が掛かった。着付けを終えても五分以上も出てこない千紗にいぶかしんでいるのだろう。
「はぁい。今行きますー」
 千紗はポーチから取り出した香り付きリップを唇に素早く塗り、鏡に背を向けた。ゆっくりと、ついたてと壁の隙間に足を進める。
「お待たせー」
 軽い詫びのこもった言葉に返事はなかった。ただ、息を飲む音が聞こえた。
 上目遣いでおそるおそる顔を上げる千紗の目の前、ソフトシャツとブラックジーンズを着た彼女の年上の恋人は、声もなく立ち尽くしていた。




 スーパーと併設された専門店の建ち並ぶファッションフロアのその一角は、浴衣で埋め尽くされていた。浴衣、帯、下駄が一万円以下で揃う手軽なセットから、一流デザイナーの名を冠するブランド物まで、値段も様々だ。それらを通りすがりに軽い気持ちで眺めていると、千紗は強く手を引かれた。
 千紗の恋人であり、結城財閥の御曹司でもある和真にとって、お手軽値段の商品は選択の範囲外だ。どうせなら良い物を選べと、特設会場の斜め向かいにある老舗の呉服屋へと引っ張り込まれてしまう。何がなんだかわからないうちに千紗は浴衣と帯を選ばされ、有無を言わさず店舗の奥の畳スペースに連れて行かれた。あっという間に、選んだばかりの浴衣を手馴れた店員に着付けられる。
 支払いは千紗が着替え終わるよりも前に、和真の財布に十数枚と差し込まれたカードで既に済んでいるのはわかっていた。いつものことと言えばいつものことなのだが、父親が早くに亡くなったあと母親と二人で倹しい暮らしを送る千紗にとって、その行為は無駄遣いにも思えるため、なかなか素直に受け取れない。
「あ、あの……これ、買ってもらっちゃって……」
「行こうか」
 ためらいがちに目を上げた千紗に笑顔と抱き寄せる腕が寄ってくる。
「ありがとうございました」
 千紗に浴衣を着付けてくれた中年の女性店員が、店を出る二人に笑顔で頭を下げる。軽い会釈でそれに応える和真の横顔に、先程見せた驚愕の表情は跡形もない。
 さっきのあの顔って、どういう意味だったんだろう。
 気付かれないよう、千紗はそっと視線だけを上げて指を絡めるように手を繋いで歩く隣の顔を盗み見た。浴衣に足を取られ、小さな歩幅でちょこちょこと歩く千紗に合わせて、和真はいつもよりゆっくりと歩く。右手には、さっきまで千紗が着ていた制服一式の入った紙袋が下がっていた。
 さっきの、気のせいだったのかな?
 上機嫌な顔を見上げ、籐のつるで丁寧に編まれたかごを手に千紗は溜息をついた。それを耳ざとく聞きとがめた和真が歩を緩める。
「もしかして千紗ちゃん、疲れた? お腹空いた?」
「え、あ、ううん。大丈夫だよ」
 慌てて首を振るも気遣わしげな表情は変わらない。
「ゆっくりできるとこ、行く?」
 さりげないふうを装った言葉の裏に密やかに流れる淫靡な囁きに千紗が気付いたのは、今までの経験からくる、ある種の勘だった。思わず立ち止まり、その顔を凝視する。穏やかに微笑みかけてくる瞳の奥にほの暗い光がちらつくのを確認し、千紗は俯いた。
 確かに、今日はそうなるだろうとは思っていた。テスト期間と四半期決算時期が災いして、三週間ぶりの逢瀬だ。以前と違い、逢えるだけでも嬉しいとは思うが、それでも三週間の禁欲期間は長い。互いにその気があるのはわかっていたのだが。
「え、でも……」
 もうちょっと後でもいいと思うんだけど。今さっき着たとこなのに。
 浴衣は手元に残るのだから、また日を改めて着ればいいのだとわかっていたが、それでも残念なのは事実だった。
「美味しいレストランが入ってるから、ルームサービスも結構楽しめるよ」
「え、えーと……。ユーキさ……」
「和真」
 短く返されて千紗は慌てた。
 以前に強く言い含められたことのある、『どこであろうともユーキさんと呼んだ場合にはキスをするからね』の言葉が一瞬頭をよぎる。
 最近国道沿いにできた、この複合商業施設は客層も多彩だ。夕刻までもう少しと言ったこの時刻、ファッションフロアの通路を行く人は若い女性客を主体に混み合っている。この状況でまさかと思いつつ、さすがに平静ではいられず、千紗は早口で言い直した。
「ええと、でも、和真さん……」
「行こうか」
 にっこり。
 後ろめたさに付け込むような、反論の言葉を断ち切る鮮やかな笑顔と強引な腕に引きずられ、千紗は下駄を履いた慣れない歩みでエレベータホールへと向かった。



「ね。本当にレストランが入ってるでしょ」
「う、うん」
 確かに、それは嘘ではなかった。
 地下一階及び二階は駐車場、地上一階に軽食メインのカフェバー、二階は高級志向の創作イタリアンの店というその建物は、二つの通りをまたぐように建っていた。大通りから見れば三階以上はマンションだろうと思うような外観だが、細めの裏通りから半分に区切られた駐車場に入ってエレベータに乗れば、三階にあるホテルフロントに辿り着く。勿論それは通常のホテルではなく、男女の密会場所として使われるのが目的の『ラブホテル』だった。
 こう言うのは初めて見た。
 感心しながら、それでもレストランの食事を味わえるのは少しばかり先の話だろうと千紗は思う。まだ空腹にはなっていないので、そのこと事態は苦痛でもないのだが。
 ホテルは嫌いじゃないけど、なんか落ち着かないのよね。部屋のほうがいいな。
 そんなことをぼんやりと考えながら車のドアを開け、千紗はやわらかな座席から身を起こした。身体を半回転させ、足指に下駄を引っ掛けた左足を地面に降ろす。身動きするごとに許可なく足首からふくらはぎまでをあらわにする浴衣の裾の扱いに四苦八苦していると、ふいに伸びてきた腕に軽く抱き上げられた。
「え? ちょ、ちょっと!」
 空に浮いた不安定感に、千紗は反射的に相手にしがみついた。誰かに見られたらどうするのかと身をすくませるが、和真は全く気にしていない。反って、二人の関係が既成事実として、なし崩しに認められるかもしれないなどと思ってすらいる。現に、今はその方向で、社内も家庭内の雰囲気も落ち着きつつあることも知っている。
「千紗ちゃん、動きにくそう」
「だって、慣れてないんだもん」
 幼い声の反論にくすくす笑いが耳を甘く噛む。その刺激に、驚いたように震えた千紗に和真は楽しげに笑い、そしてゆっくりと軽い身体を下ろした。
「行こうか」
 低くかすれ始めた声に千紗は頬を赤らめ、俯き加減に頷いた。



 無人のフロントでパネルに残った空室のボタンを押し、その先にあるエレベータに乗る。土曜の夕方だというのに、選択肢があまり多くなかったということが、千紗には驚きだった。
 結構みんな、こんなとこ来てるんだ。
 内心でそう呟きながら、和真に手を引かれて廊下を歩く。床の中央に点滅式に浮かび上がる赤い矢印のラインの辿り着いた先が、和真の選んだ『802号室』だった。玄関ドアを模した入り口で下駄を脱ぎ、素足でペタペタと上がる。ベッドの横に天井からカーテンが釣り下がっているのを見て、千紗は近寄った。和真の住むマンションほどではないだろうが、このくらいの高さからならば眺めもいいだろう。そう思い、窓を塞いだ重いカーテンを開く。その次の瞬間、その口からは落胆の声が洩れた。
「なーんだ」
「ん、どうしたの」
 後から部屋に入ってきた和真の姿を目の前で確認して、そして千紗は振り返った。
「窓だと思ったのに、鏡だった。おっきい鏡」
 壁を覆わんばかりのサイズを指差しながら、不服そうに唇を尖らせる千紗に、明るい笑顔が向けられた。
「こう言うところは、あんまり窓は大きくないはずだよ。危ないから」
「危ない?」
「そ。落ちちゃったりしたら大変でしょ」
 どうすれば大のおとなが窓から落ちるのかと思いながら、千紗はゆっくりと近付いてくる和真を鏡越しに見つめた。真後ろに立った大きな影が千紗を左手で抱き寄せる。空いている右手が帯と身体の隙間に入り込んでごそごそと探っていた。
「な、なに……んんっ」
 首をひねるように仰向かされ、覆い被さってきた唇に封じられる。ぬるぬると入り込んでくる舌が千紗の理性を吸い上げようとする。腹部を軽く圧迫していた幅広の帯が下半身に巻きつくように落ちてきて、背にあったはずの大きなリボンがほどかれてしまったのだと知れる。
 うわ、慣れてる。
 着せてもらった自分でさえ、どこがどうなっていたのかわかっていない帯結びを簡単に解かれたことに軽いショックを受けながらも、何度も重ねられる深い口づけと背に強く押し付けられる男の昂ぶりに熱くなる。三週間ぶりのセックスがどんなことになるかとの期待が目を潤ませる。鏡越しに背後の恋人を見つめると、同じく鏡越しに千紗を見ているまなざしと視線が絡み合った。
「浴衣着た千紗ちゃんも、すごく可愛い……」
 低く囁く声が耳を噛み、ぬらぬらと唾液の跡を付ける。肌に当たる熱い吐息に一瞬身を震わせ、そして千紗は視線を上げた。
「浴衣、好きなの?」
「んー、浴衣というか、浴衣を着た千紗ちゃんがね。さっき、本当にびっくりした。きれいで可愛くて、なんか別人みたいで、ドキドキするよ」
「別人ってー。ヘンなのー」
 おかしそうに笑う千紗の首すじを、ちゅっと音を立てて吸い、身をかがめて舌を這わせる。くすぐったそうに身をよじる千紗を逃すまいと抱きしめる腕に力を入れ、うなじに鼻先をすりつけるように和真はキスを続けた。
「今日は、優しく可愛がってあげるね」
「優しく?」
 不思議そうに顔を上げた千紗に、和真は苦笑混じりに頷いた。
 かなり強引に連れてきたという自覚は和真にもある。千紗が和真を『餓えている』と判断しても無理はなかった。
 確かに、餓えているのは紛れも無い事実だった。千紗は信じないだろうが、この三週間というもの、和真は一切セックスをしていない。これは別に千紗に貞操を誓っているわけでもなんでもなく、ただ単に仕事が忙しすぎて、行きつけの秘密クラブや乱交パーティへ出る時間がなかったからだった。
 それに、餓えを満たすためだけが目的のセックスフレンドならば、多少乱暴に扱ったところで問題など感じないが、千紗が相手となると、男としてそれなりに格好をつけたいとも思う。道端でのプロポーズの一件以来そのことを強く意識してはいるが、見慣れぬ千紗の浴衣姿に一気に増殖したのだろうと、和真は自分の内心を分析していた。気のせいか服のせいか、いつもよりもかよわく儚く見える千紗の佇まいが、ひどく男をそそる。
「そういう気分なんだ。大切にしたい」
 甘く囁きながら和真は胸の合わせ目に手を差し込んだ。
 結婚することになれば、さすがに千紗への対面上クラブへ出入りすることは控えたほうがいいだろうが、今の状況ならば完全に手を引く必要はないだろうと和真は考えている。千紗の反応からもそこまでは望んでいないように思えた。
 本当は、今すぐにもやめたほうがいいんだろうけどな。
 内心でろくでもないことを考えながら、和真は手のひらを薄い肌着の上を這わせた。ガーゼ越しに胸全体をつかむようにやわらかく揉み、その衝撃にびくんと千紗の身体が反応する。
「あれ、ノーブラ?」
 指先で先端を弄びながら和真が訊く。
「う、うん。そのほうが浴衣のラインがきれいに出るからって、さっき……」
「ふうん」
 きゅっと強くつままれ、千紗は跳ねるように震えた。
「ゆ、ユーキさん……」
「和真」
 強い口調で返すと、和真は喘ぐ唇を塞いだ。入り込んだ舌が千紗の口内を縦横無尽に蹂躙するのと同時に、ガーゼのあいだへと指が忍び込む。普段は慎ましやかな佇まいを見せている薄い朱色の乳首が固く勃ち上がっているのを確認し、それをつまんで、そして軽くひねった。
「ん、んんーーっ」
 呼吸を制限されたまま指先で攻められ、思わず千紗は暴れたが、抱きしめる腕の力が弱まるはずなどなかった。そろそろと下がった右手が腰を周囲を這い、布のあいだに隠されていたはずの腰回りを押さえていたやわらかい紐を探し出す。紐の端を軽く引き出すと、それをしゅるりと解く。その途端に、浴衣は重力に従って床に落ちた。
「やっ、あっ」
 手際のよさに驚く千紗の胸元が素早く開かれて、隠れていた肌が現われる。その様子が鏡に映っている。あまり大きくはない胸のふくらみが白いガーゼの下着のあいだから見える様は、今までに感じたことのない羞恥を千紗に与えた。

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