花を召しませ -10
――ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ、……――。
しつこく鳴り響く耳障りな電子音で目が覚めた。
「んー……」
目を瞑ったまま手を伸ばして、枕元を探った。ずれたシーツの上で、マットレスから半ば落っこちそうになっていた携帯電話のストラップを指先に引っ掛けて、そのまま引き寄せる。サブディプレイに示された名前を確認してからケータイを開いて、通話ボタンを押した。
「んー、もしもし……?」
「みゆきっ!」
脳に直接突き刺さるかのような大音量に思わずのけぞった。耳から遠く離して、まるでそこに相手がいるかのようにケータイを見つめる。聞き慣れた大声が早口でまくしたてるのをぼんやりと眺めた。
「何回電話したと思ってんの、今どこにいんのっ! ――ちょっと、聞いてるっ?」
理由もわからないまま責められる。そう言えば何度か電話が掛かってきていたような気もするかも、なんて心の中で呟きながらわたしは軽い溜息をついた。
「どこって、うちに決まってるでしょ」
「えっ、ウチ? あ……あ、そう」
トーンダウンした声にそっと耳にケータイを押し当てた。
「あーっと、もしかして寝てた?」
「もう二時でしょ。寝てたっておかしくないのよ、普通」
まだ半分ほど眠ったままの頭で大きなあくびを吐きながら、手元のスタンドライトをつけた。ビデオデッキの表面に浮いたデジタル数字を読み取る。
「で、何の用なの、有理。こんな時間に」
普通ならばベッドに入っていてもおかしくない時間だけれど、週に二回か三回は朝まで遊んでいた店から大学へ直行していた有理のことだ、世間一般の感覚とは違うのかもしれない。当然のように講義を寝倒していたけれど、それでも定期テストではきちんとした点数を取っていた。彼女のそういうところはすごいと思う。
「そうよ、それそれっ!」
すうっと一つ大きく息を吸い込んで、そして。
「美雪、あんた、シズとどうなってんの!」
投げつけるような直球攻撃に眠気も一気に吹き飛んだ。
「どうなってんのって、そんないきなり言われても……」
けれど、眠かろうが眠くなかろうが、言いづらいことであるのは確かだ。言いよどみながら一番正解に近い言葉を探るが、それでもなかなか出てこない。
「あのね、わたしにもよく……わかんないんだけど」
困りながらもそう告げてから、それが正しいのだとようやくわかる。そうだ。わたしはよくわかっていないのだ。
彼がホストをしていたことをとやかく言うつもりは毛頭ない。人にはそれぞれ歩いてきた道があって、それが他人から見てどういう状況であれ、過去となった時点で本人にさえもどうすることもできないものになってしまうのだから。
そして、彼とわたしがセックスをしてしまったことも問題はない。
わたしは彼が好きで、彼もわたしを好きだと思ってくれていたのだから、それなりの年齢の男女が好き合えばそういう行為に及ぶのはごく自然なことだろう。わたしに経験がなかったことで、その過程が少々間延びしたのだけれど。
彼の家庭環境もその苦しみに対する彼の行為も、他人であるわたしが口を出すことではない。
ただ、問題は。
『俺、あの人に金で飼われてんの』
楽しげで悲しげで、そしてなによりも自分を蔑むようなあのまなざしが、未だに咀嚼されないまま心の入り口に引っかかっていた。噛むことさえできないのだから、当然飲み込めない。とげのように刺さったまま、いつまでもちくちくと痛みを伝えてくる。
「本当に……わからないの」
あの日わたしは、何も言わずに服を着て、そのままホテルを出た。彼は追ってこなかった。だから地下鉄に乗って家に帰った。帰り着いたアパートの狭いお風呂場でシャワーを浴びて、一人で眠った。朝起きて、見覚えのある名前がずらりと並んだケータイの着信履歴に、嬉しいと思いながらも、その気持ち以上にうろたえた。掛け直すことも掛かってきた電話に出ることもできず、聞こえない振りで通した。
彼を軽蔑できたら楽でいいのにと思う。バカな男に処女を捧げたと怒ればいい。もう二度と掛けてこないでと言ってしまえば、簡単に解決するだろう。
それができない理由はただ一つ。
「あのさあ、あたしだってわかってんのよ。恋愛なんて他人がとやかく言うもんじゃないって。あんたにはあんたの言い分があるだろうし、それが正しいかどうかなんてあんたにしかわかんないんだから。――でも、ね」
彼女がふうっと大きく息を吐いた音が、ノイズ混じりの中、奇妙なほどクリアに聞こえた。
「でもシズが……ちょっと見てらんないのよ」
有理が教えてくれたのは、いつもスマートに仕事をこなしている彼らしくない状況だった。
一昨日、何度も注文を聞き違え、それが原因でお客さんとトラブルになった。オーナーが出てきて謝り、なんとかその場は収まったらしい。翌日はグラスを割り、皿を割り、灰皿までも割り、挙句に今日はお酒の瓶を割ってケガをした。手のひらを五針も縫ったと言う。
一昨日。
彼と別れたのは四日前だった。つまりあの翌日が、有理の言う『一昨日』ということになる。
「そんで病院から帰ってきて、オーナーと話してたんだけど。『プライベートなことですから』とかぬかすのをさんざん脅して宥めて、ようやくあんた関連の話を聞きだして――」
「あのさ、有理」
居ても立ってもいられなくて、とりあえずベッドから降りた。
あの彼が、客とトラブルを起こすなんて考えられない。グラスを割るとかケガをするとか、ありえない。ありえないのに、どうして?
「今どこにいるの?」
「だから、店。今日は土曜だからね、オールナイト。カウンターはもう一人いるから助かったけど――」
「わたし、今から行ってもいい?」
明日は仕事も休みだ。たとえ眠らなくても差し支えるわけじゃない。彼がケガをしたのならお見舞いをしないと。知らなかったのならいいけど、聞いてしまったことだし。
自分に対する言い訳を頭の中で組み立てながら、ベニヤ板で作られた安物のクローゼットを押し開けた。そんな状況ではないのに、みっともない格好をしたくはないと彼にそう見られたくないと、どこかに残った見栄が囁く。
「あ、来る? すぐ来れる? 裏口わかる?」
「うん、わかる。駐車場のところからゴミ置き場の横通るんでしょ?」
「そうそう、そっちから入ってきて」
「わかった。じゃあね」
ケータイを置くとパジャマを脱ぎ捨て、フリルのついたベビーピンクのカットソーとブーツカットのブラックジーンズを急いで身に付けた。財布を通勤用の鞄から取り出して、持ち直したケータイと一緒にライトストーンのついた華やかなバッグに放り込む。
これくらいの時間でも、大通りに出ればタクシーは捉まえられるだろう。車ならば店は二十分の距離だった。ほんの二十分。そこに彼がいる。
「ケガですって? 五針縫ったですって?」
寝乱れた髪にブラシを通して、軽く顔を洗ってうがいをして、ピンクベージュの口紅を塗った。
「バカっ!」
「あ、こっちこっち」
華やかな店内とは真逆の、どこかの事務所のような簡素な廊下の端で立ったままタバコを吸っていた有理は、わたしを見つけると手を振った。普段の五割増で動く心臓と呼吸を抑えつけるように、のどを手のひらで押さえながら、早足で彼女に駆け寄る。
「で、シズくんは?」
「あの部屋」
声をひそめるようにという意味か、唇に立てた人差し指を押し当てる仕草をわたしに見せてから、彼女は廊下の突き当たりのドアを指した。
「中でオーナーとしゃべってるの。ちょっと待って」
言いながら握ったままのケータイを開いて素早く操作して、誰かへ電話を掛ける。
「あ、もしもし? うん、着いた。始めて」
それだけを言うと、有理はわたしを振り返ってにっと笑った。
「え、なに? 誰?」
髪の上から押し当てられたケータイに慌てたけれど、わたしを押し留めるように肩に回った手と真摯なまなざしは、それなりの理由があるものなのだろう。そう判断して小さく呼びかけた。
「もしもし……?」
相手は誰なのだろう。もしかして。そう考えただけで少し収まりかけていた鼓動が一気に早まった。まるで口の中で心臓が動いているかのように声が出にくい。
けれど、ケータイの向こうから返ってきたのは。
『――で、彼女はなんて?』
『――も、黙って――――です。――電話――ですし、俺もう――』
まるで通勤電車内でなんとなく人の話を聞いているときのような、そんな奇妙な違和感があった。誰が話しているのだろう。低いぼそぼそした声はひどく聞き取り難い。
『おまえバカだなぁ。なんでそのとき追っかけなかったんだよ?』
『――ホントですよね――でも、―――って……』
『納得してんじゃねえよ。彼女をあきらめるのか? あきらめられるのか?』
『それができりゃ、――――、ですけどね――、でも――』
『おいシズ。おまえ、俺を舐めてんのか?』
えっ?
怒鳴るように聞こえてきた名前に視線を上げた。間近にある、有理の横顔を見つめる。けれど彼女は、わたしに頬をすりつけるような体勢で、途切れ途切れに聞こえてくる二人の会話に黙って耳を傾けていた。そのひどく真面目な表情に何も言えなくなる。
今、誰かがシズと言った。そう聞こえた。彼の名前を呼んだ。
これはなに? なにをしてるの?
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