花を召しませ -11

『だって、もう―――。俺が――、――でも――』
 やはりそうだ。彼の声だ。彼の声だとわかれば、そう聞こえる。むしろ、彼の声だと最初にわからなかったのが不思議なほどだ。けれど、その会話の大半は聞き取れないままだった。どんなに耳を澄ましても、なんとか理解できる程度に聞こえてくるのは、彼よりも少し低くて太い、別の男性の声だけだった。そのもどかしさに唇を噛む。
 彼が話しているのに。それはわかっているのに。
「あー、ダメだわ」
 唇を歪めてちっと舌打ちをすると、有理は忌々しそうにそう呟いた。
「ごめん美雪、作戦失敗だわ。声ちっちゃいよ、シズ」
 彼女のその言葉で、だいたいの状況は読み取れた。彼と話している相手が誰なのかも、彼女のいう『作戦』とやらがなんだったのかも。
「シズくん、今あの中でオーナーと話してるの?」
「うん。美雪がいないほうが本音話すかと思ったんだけど……ダメね、これじゃ」
 言いながら彼女は、わたしの手の中から自分のケータイをするりと取り上げた。ぼそぼそした会話は続いていたけれど、ネイルアートの施されたきれいな指先は赤い電話のマークを無慈悲な手つきで押した。そのまま乱暴に本体を畳む。
「ホンットにもう、全くもう……。バカシズ」
 その言い草はちょっとひどいんじゃないかなとも、ちらりと思ったけど。
「これじゃ仕方ないわねー」
 怒ったような顔でそう言うと、彼女は窓の桟に置かれた空き缶を半分に切ったようなデザインの灰皿に吸いかけのタバコをねじこんだ。わたしの手を取ると、強い視線のまま大きく息をつく。
「乱入するわよ」
「え? ええっ?」
 早足気味に廊下の突き当りへと進んで行く彼女に強く腕を引かれて、まるで連行される犯人のようによろよろと歩く。
「ちょ、ちょっと……」
「あたし。入るわよ」
 それだけを言うと、彼女はノックもなしにドアを開けた。そのまま遠慮のない足取りでずかずかと入って行く。
 部屋には、サイズ違いのソファが三つとガラス製の灰皿が乗った小さ目のテーブル、そして小さな本棚と引き出しが壁際に並んで置かれていた。ドアの真正面に置かれた一人がけのソファには、見知らぬ男性が座っていた。
 ウェスタン調の、胸の切り替えにフリンジのついた茶色のシャツと白いパンツ。少し開いた胸元からターコイズブルーのペンダントが覗いている。身体つきが大きくて顔もちょっといかつい感じだけれど、垂れ気味の目元のせいか、とても優しそうに見える。茶色の前髪を全部後ろに流して、スパイラル状の鈍く銀に光るカチューシャで留めているのがなぜか可愛い。
「お、どうした?」
 有理と、そしてわたしに目を留めて、その人は少し野太い低い声でそう言った。この人がオーナーで、シズくんを助けてくれた人で、そして有理の友だちなのだろう。
「ダメだよー、聞こえない」
「聞こえなかったのか?」
「うん。肝心のところが全然ダメ」
 彼の驚く顔に拗ねた口調で答えると、有理はわたしの手を強く引っ張った。
「ほら、美雪も来なって」
 有理の声に、三人がけのソファの端に浅く腰をかけて俯いていた男性が弾かれたように顔を上げた。きれいに光る黒髪と、普段よりしわの目立つ白いシャツ。いつも優しく笑っていた瞳は今は、驚きに強く見開かれていた。薄く開いた唇が震えている。
「みゆ、き……、さん?」
 彼に会わなかったのはほんの数日のあいだだったというのに、随分と久し振りのような気がした。
「なんで? なんで、ここに……いんの?」
 わたしを見上げるその顔の左の頬に、五センチほどの傷があった。白い肌の赤い切り口が痛々しい。そう言えば、お客さんとトラブルになったと聞いた。まさか、殴られたりしたのだろうか。そんなことまであったのだろうか。考えるとぎゅっと息が詰まる。
「だってシズくん……、ケガしたって、聞いた、から」
 彼の両腕は力なく落ちた肩からひざへと、だらりと投げ出されていた。右の手首から手の甲までが、元の形がわからないほどに包帯でぐるぐる巻きになっている。手首から先が白いボールに変わってその先に指が生えている、そんなふうに見えた。
「ああ、これ?」
 そう言いながら彼はゆっくりと右手を持ち上げた。曖昧な、照れているような困ったような顔で、溜息混じりに笑った。
「なによ、それ。なにを……してたのよ!」
 縫う傷というのがどの程度のケガなのか、経験のないわたしにはわからない。それでも軽いものでは決してないだろう。痛いだろう。血もたくさん流れたのだろう。そう思うと苦しくなってくる。彼は右利きなのだから、右手をケガなどしたら、仕事にも日常生活にも支障がある筈だ。食事をするにもお風呂に入るにも、もしかしたら着替えるときにさえも不便かもしれない。
「いや、それが、俺もよくわかんなくて。ちょっとぼーっとしてて、気がついたらザックリ切れて、血が出てて」
 不思議な物を見るような目で包帯に包まれた自分の手のひらを眺める横顔は、いつもの彼の表情に限りなく近かった。あまりの安堵にひざの力が抜ける。体重を支えられなくなった脚がかくんと折れて、薄いベージュのカーペットが敷かれた床に崩れるように座り込んだ。
「美雪さんっ?」
「美雪っ!」
 力が入らなくて、顔さえ上げられない。
「ばか」
 全てを篭めた言葉を口の中で呟いた途端に、世界がゆらりと揺れた。まるで水中にいるときのように焦点の合わない視界は、限界まで膨れ上がったあと、まばたきと同時にジーンズの上に円球の黒い染みを作る。その周囲にぽつぽつと、大きく小さく丸の数が増えて行く。
「なんで、美雪さんが泣くの?」
 頭にふわりと優しく触れるのは、きっと彼の左手なのだろう。大きな手のひらのわずかな重みと、ゆっくり前後する度に少しずつ髪の中へ入ってくる指先の感触に、子どもになったような気がする。頭を撫でられることがこれほどまでに安らぐとは思わなかった。忘れていた。
「なんでって……そんなの知らないわよ。勝手に出てくるんだもん」
 耳を伝ってゆっくりと降りてきた手が頬を撫ぜて、そしてあご先にかかった。わずかな指先の力だけで上を向かされる。されるがままに視線を上げる。
 優しく細まった目と短い黒髪。広い額に浮いた汗の理由はなんだろう。
「ね。俺のことで泣いてくれてるの? 俺のために泣いてくれてるの?」
 普段よりも白い頬は、ケガのせいだろうか。それとも照明が違うからだろうか。
「はいはいはいはい、そこまで」
 パンパンと手を叩く音に振り返ると、難しい顔の有理が仁王立ちしていた。思わずと言った様子でシズくんが身体ごと手を引く。
「その辺はあとでゆっくり、二人で話しなさい」
 強い口調で、でも優しい顔でそう言いながら、彼女はどこからともなくポケットティッシュを取り出した。長い両足を折り曲げるようにわたしの顔の前に屈み込むと、抜き出した一枚でそっと目元を押さえてくれた。ぽんぽんと軽く叩くように涙を拭き取ると彼女は少し困ったような笑顔で頷いた。わたしを右手を取って引っ張りながら一緒に立ち上がってくれる。
「シズ、あんたわかってんの? あたしの親友に勝手に手ぇ出して、挙句泣かせて……ホント許さないわよ?」
 有理の言葉に、彼は申し訳なさそうに目を伏せた。ワックスでキラキラ光る綺麗な黒髪を下げて、叱られている子犬のようにうつむく。
「で、何がどうだっての。ちゃんと説明しなさい、あたしにも美雪にも。隠し立てなんてしたら、この場で絞め殺してやるから」
 言いながら彼女はシズくんの向かいの、二人がけのソファにどかりと腰を降ろした。
「ホラ、さっさと吐いちまいな」
 ミニのプリーツスカートから伸びる脚を高々と組むと、彼女は取り出したタバコに火を点けた。視界の端でオーナーが苦笑しているのが見える。確かに、その姿はとても品がいいとは言えないけれど、女性らしいとは言えないけれど、でも。
「そうだな、全部吐いちまえシズ。そうすればおまえだってすっきりするだろう?」
 曖昧な笑みを浮かべながらのオーナーの言葉に、有理は髪を広げるような勢いで振り返った。
「ちょっと、何よそれ? 正直、シズなんかあたしはどーでもいいの。問題は美雪よ、美雪が一番傷ついてンだからね! こんな状況になることがそもそも情けないんじゃないのよ!」
 うわ、手厳しい。
「いや、だけど、おまえ……」
「アンタはちょっと黙ってて!」
 叩きつけるように有理がぴしゃりと言い放つと、オーナーは肉厚の肩を軽くすくめて「はい」と呟いた。この二人ってきっと付き合ってるんだろうな、そして有理のほうが強いんだろうな、なんて、そんなのんきなことを考えている場合じゃないけど。
「さあ、美雪も」
「はい」
 名前を呼ばれて、なぜかいいお返事をしてしまう。けれど彼女は自分の隣を手で軽く押さえると、わたしを見上げてにっこり笑った。
「いつまでもそんなとこに突っ立ってないで、こっち座りなさい」
「あ、はい」
 駆けるようにソファに近寄って彼女の隣に座る。彼女はわたしに視線を向けると、気遣わしげな表情で軽くやわらかく笑いながら頷いた。そのあまりの態度の違いに、男二人が一瞬顔を見合わせる。それが少しおかしい。ちらりとそう思いながら、ふとももにバッグを置いて、ひざを揃えた。
 すぐ右に有理、その向こうにオーナー、そして真正面にシズくん。
「さあて、と」
 有理はそう言うと、タバコの先に溜まった灰を指先で弾いて灰皿に落とした。それが合図だったかのように、わたしを含めて、有理以外の三人が顔を上げた。
「で? なんだって?」
「あ、はい」
 ぴんと、まるで胸を張るように背をそらしながらも、シズくんのそのまなざしはひどく暗かった。
「ええと、ですね――」

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