花を召しませ -12

 彼の話は、結論から言えば『父親の借金が残っているからパトロンと今はまだ別れられない』と言うものだった。
 彼のパトロンは、いわゆるバツイチ独身の女社長で、かなり羽振りがいいらしい。週に一度か二度の逢瀬を条件に、月に換算すれば四十から五十万円の手当てと、それ以外の呼び出しには別にそれなりの金額を渡すと言う。彼が乗っているスポーツカーも『いつでも駆けつけられるように』との彼女の意向で買い与えられたものらしい。そして彼女から貰う金額の殆どが、父親の借金返済に回っている、とのことだった。
「うーん、つまり、お金のことがあるから社長サンとは別れない、と」
 事情が事情と言うことでさすがに強く出られないらしく、やや穏やかになった口調で呟くように言いながら、有理は短くなったタバコをガラス製の灰皿で押し潰した。
「でも、美雪は美雪でキープしておきたいってワケだ。シズとしては」
 それでも消えない皮肉混じりの彼女の言葉に、シズくんはちらりとわたしを見て、そして申し訳なさそうに目を伏せた。
「そんなつもりじゃないんですけど……でもそういうことになっちゃいます、かね」
「そうね。そっちのほうが都合いいもんね」
「おい、有理。だからさ、シズの立場も考えて――」
「アンタは黙ってて!」
 叩き付けるように返ってきた反応に、オーナーは首をすくめた。有理のほうがずっと年下なのに、これは思っていたよりずっと尻に敷かれてるなあ、なんて、他人の事を気に掛けている余裕なんてわたしにはない筈なのだけれど。
「お金かあ……」
 言いながら有理は新しいタバコに火を点けて、ふーっと大量の煙を吐き出した。ガリガリと後頭部を掻きながら唇を歪ませて、うーんと口の中で唸る。
「お金はあたしも持ってないし、アンタもこの店の借金あるもんねえ」
 ちろりとオーナーへと視線を向けて、有理は深く溜息をついた。なぜかオーナーが情けなそうに頷きながらシズくんへと目だけを向ける。
「多少なら給料上げてやってもいいけど……」
「あ、いや。そんな、全然。俺、今でも充分頂いてますから」
 慌てたシズくんの言葉にオーナーが困ったように溜息をつく。つられるようにシズくんと有理と、そしてなぜかわたしまでが溜息をつく。
「でも、借金あるんだろう? 俺、おまえは親父さんとは完全に切れてると思ってたから、その辺が結構意外でさ。――いや、悪い意味じゃないんだけど」
「あー、その……」
 言い難そうに口ごもると、包帯に包まれた右手で頭を掻こうとしてから包帯に気がついたように眉をひそめて手を下ろして、そして彼は黙って俯いた。
「なんとかしてやりたいとは思うんだけどなー、でも、俺も借金だらけなんだよな、まだ」
「だから、独立なんてまだ早いって、あたし言ったのに」
「うー。今となってはおまえの言うこと聞いときゃよかったと思うこともある」
 がっくりと肩を落とすオーナーを横目でちろりと見る有理に、そんな場合じゃないのにおかしくなる。それは、普段の姉御肌な性格と照らし合わせても全く違和感はなくて、納得はするけれど。
「あの……」
 そのとき、おそるおそると言った様子でシズくんが声を出した。
「あ? 何?」
「い、いや、その。あの、ですね」
 軽く肩をすくめながら彼はオーナーから有理へと視線を巡らせて、そしてわたしの上で止めた。
「俺のほうは今話したような、そういう事情なんですが」
「あ、そ、そうだった。うん」
 慌てたように頷くオーナーは、どう見ても、途中からシズくんのことを忘れてて今言われて思い出したって感じだった。シズくんもそう思ったんだろう、少し胡乱な目でちらりと見て、そして軽く溜息をついた。それに対するように有理が曖昧に笑いながらわたしに目を向ける。
「とりあえずさ、美雪はどうするつもり?」
「どうって……?」
「だから、シズのことよ。借金持ちで、しかもパトロン付きの男よ。そんなんでいいの、って」
 容赦のない有理の言葉に彼が申し訳なさそうに顔を伏せるのは、もうなんだか見慣れたような気がする。
「ね、いいの?」
 だって、そんなこと。そんなこと言ったって。
「そうよねえ。そりゃ、そうよねえ」
 わたしがまだ何も言わないうちに、有理は納得したような口調で天井を見上げた。半分ほどになったタバコを器用に指先にはさんで、ふうっと白い煙を吐く。
「まあ、こんなめんどくさい男、普通は……」
 彼女の言葉にオーナーとシズくんがわたしに視線を向ける。そのまなざしの意味に慌てた。
「え、ちょっと待って、有理。わたし――」
「はい、ストップ、美雪」
 え?
 キレイに光る唇を尖らせると、有理は突き出した右手人差し指を悪戯っぽい仕草でちょんと動かした。優しい笑みと軽いウィンク。
「さあ、シズ。クイズです。答えはどっち?」
「は?」
 ぱちぱちとまばたきをすると、彼は有理とわたしを交互に見た。
「んもー、鈍いわね。だから、美雪の答えはどっちでしょう、って」
「え、でもそれは……」
「あんた、ホントにバカね」
 くすっと彼女は笑う。言葉とはうらはらの、優しい笑顔。
「この状況で、だいたいわかるでしょ? 真面目なOLの美雪が、あんたがケガしたからって夜中の二時に飛んできたのよ。あんた、好きでもなんでもない相手がケガしたって聞いて、寝てたのにわざわざ起きる? んで、出かける? 顔見て泣く?」
「あ、えっ……ええと……?」
 そのときわたしに真っ直ぐ向けられたシズくんの表情は、いけないと思いながらも笑ってしまうくらい、間抜けすぎるほどに真面目だった。おかしくないのに、口元が緩んでしまう。けれどそれはわたしだけではなかったようだった。笑いを堪えているのだろうオーナーは、顔を半ば歪ませてゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、まあ、俺らはこの辺で」
「そうね。ずっと座ってたら逆に疲れちゃった。踊ってこよう」
 組んでいた脚を解くと、有理も立ち上がる。大きく伸びをしながらわたしに視線を向けてにっこりと笑った。
「じゃあね、美雪。明日は休みでしょ。せっかくだしゆっくりしてってよ。その下、毛布とかも入ってるから、要るのなんでも使って」
 めくれあがったシフォンブラウスの裾を直しながら、彼女はシズくんの座っている三人がけのソファを目で示した。
 この下? それに毛布? 内心で首を傾げながらも彼女の言葉に頷いた。
「ありがとう、有理。オーナーさんも、ありがとうございました」
「あ、いえいえ。こっちこそ。ウチのシズが面倒掛けてしまって」
 頬に落ちてきた髪を耳に掛けながらオーナーはわたしに軽く頭を下げた。
「そんな、とんでもないです」
 互いに頭を下げて、そしてゆっくり顔を上げた。
 彼の、わたしを見る目はとても優しかった。笑うと左の頬に小さなえくぼが浮かぶ。妙に新鮮な気分でわたしはそれを見た。
 身体つきが大きいことも、脱色しすぎたような色合いの髪も少し胸元が開いた服の感じも、何も知らずに街中で見かけたのなら視線を合わさないように努力してしまいそうなタイプだけれど、きっと素敵な男性なのだろう。有理が選んだ人なのだから、シズくんが慕う人なのだから、きっと。そう思うとなぜか嬉しくなる。 
 ――それでもわたしは、シズくんがいいけど。
「あ、シズ、もう今日は出なくていいから。あと、引出しの上から二番目な、好きなだけ使え。でも手は気をつけろよ。ムリすんな」
「はい、ありがとうございます。すみませんでした」
「んー、じゃあなー」
「頑張ってねー」
 それだけを言い残すと、異様なほどの性急さで二人はバタバタと部屋を出て行った。
「引き出しの二番目?」
「頑張ってね、って?」
 静かになった室内の取り残されたような空気の中で、わたしとシズくんは顔を見合わせる。
「引き出しってこれだよね」
 言いながら、彼は壁際に本棚と並んで置かれている木製のチェストに歩み寄った。彼の腰の高さより少し低いくらいのそれは、一番上の引き出しだけが鍵がついていた。一番上が一番薄くて、二段目から下は一つ下がるごとに順番に、厚みが増している。その二段目の引き出しのくぼみに左手の指先を掛けて、木がこすれる微かな音を立てながら引っ張り出して、そして彼の動きが止まった。
「どうしたの?」
 ソファに座りながら背中に声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。困ったような呆れたような吹き出しそうなのを我慢しているような、そんなひどく曖昧な笑顔で、左手に握った薄い箱を振る。
「コンドーム、入ってた」
「えっ?」
 彼の手の中にあったのは、タバコの箱によく似たものだった。ポップな書体で書かれた『フィット感抜群』という文字が、電灯を映し込んだようにきらりと光る。
「こんどー……む……?」
 ぼんやりと同じ言葉を繰り返した。どうしてそんなものがここにと思いかけて、自分の中から出てきた答えに顔が熱くなる。頬を手で押さえて天井を眺めるようにして、彼と彼の手の中のものから視線をそらした。
「全く、あの人はいったい何を考えて……」
 曖昧な顔を続けたまま、シズくんはわたしの隣にやや乱暴にどさりと腰を降ろした。ブツブツ言いながらも手の中の箱に視線を注いでいる。
「あ、じゃあ有理の言ってた『その下の毛布』って……?」
「見てみる? なんとなく検討つくけど」
 溜息をつきながら立ち上がると、彼はソファの下部内蔵の引き出しを開けた。つられるように立ち上がり、彼の行動を見つめる。
 予想通りというべきか予想以上というべきか、引き出しの中にはきちんと畳まれた数枚のタオルとシーツ、枕のようなクッション、やわらかそうな毛布、そして数個のボックスティッシュが並んでいた。これはどう見ても男女の蜜事の必需品で、その、つまり。
「ホントに、何考えてんだあの人たちは。店だぞ、ここ」
 深い溜息をついて苦笑いを浮かべてガリガリと頭を掻いて、けれど彼はなぜか大きく頷いた。
「ま、いっか。せっかくの好意だし、使わせてもらおうかな」

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