花を召しませ -15

 気持ちを切り替えようとしたときには、もう遅かった。
「そのときはこんな安物じゃなくって、もっといいの買おうね。色はどうしようか。ピンクは美雪さんによく似合うけど、同じ色ばっかりって言うのもつまんないかなって気もするし。やっぱダイヤかな。基本だもんね」
 彼の優しい言葉に、堪えていた一線を簡単に越えてしまう。堰を切ったように一気に涙が溢れる。テーブルに次々と小さな丸い水滴の跡を作ってしまう。
「――美雪さんはどんなのがいい? ねえ、美雪さん?」
 ぽろぽろと涙が落ちてくる。どうしようもなく落ちてくる。
「美雪さん?」
 慌てた手がわたしの頬を撫でる。泣き顔を見られまいと、上を向かせようとする指に抵抗したことが逆効果だったのか、彼の声が更に上ずった。
「ど、どうしたの? こんなのイヤ?」
 動揺した声音に慌てて頭を振って、その心配が無用であることを伝えようとした。けれど彼はそれさえも反対の意味に取ったようだった。おろおろした声が続く。
「これ、気に入らなかった? ごめん、俺全然わかってなくて」
「ちが、う……違うのっ」
 普段はどちらかと言えば楽天的な彼が、どうしてこんなときだけマイナス思考なのだろうと思う。
「わたし、今まで指輪もらったことないの。初めてなの」
 ぐすぐすと啜り上げながら、手探りでカラーボックスの中のティッシュの箱を取り上げた。抜き取った一枚で目と鼻を押さえる。
「すごく嬉しい。ありがとう」
 今まで何度も泣いた。彼の前で、また彼に隠れて。それは彼を責める涙だったこともあったし、彼を信じきれない弱い自分への自己嫌悪だったこともある。そうやって泣くことに更に嫌気が差して、また泣いて。
「ありがとう、シズくん」
 こんなに幸せな涙があったなんて。
「あー、そう、なんだ」
 よかった。びっくりした。
 目を伏せるようにして言うと、彼は大きく息を吐いた。
「指輪のプレゼント、俺が初めてなんて、感激」
 まだ少し動揺が残ったような表情で、それでも嬉しそうに彼は頷いた。
「でも、次もちゃんと喜んでもらえるようなものって、ハードル高いなー」
 カリカリと頭を掻くと、彼はわざとらしく溜息をついてみせる。その様子に笑ってしまう。
「いいのを買ってくれるのよね?」
 わたしの軽口が珍しかったのか、彼は一瞬驚いたように目を見開いて、そしてくすりと笑った。
「うん、勿論。いいの買おう。一番いいの。俺、頑張るから。今度は美雪さんのために頑張るから」
 指輪の嵌った指を彼が手に取る。軽く押し付けられる唇。指のあいだにふと触れた舌にゾクゾクする。
「楽しみにしてるからね。嘘ついたらいやだからね」
「嘘ついたら刺していいよ。期待してて」
 見つめ合って、笑い合う。やわらかく細まっていた彼のまなざしが、一瞬ひどく真面目になった。
「ね、美雪さん」
 握っていた手を引き寄せられて、抱きしめられる。細い指にあごを押し上げられた。軽く開いた唇が寄せられて口付けられる。
「んっ……」
 軽く胸を押し返すと、むきになったように抱きしめてくる。ぬるりと入り込んできた舌に絡め取られて息ができない。遊ぶように強く吸い上げられていた舌が解放されて大きく息をついた瞬間、ひざ裏に回った手に軽々と抱き上げられた。
「え、あっ? ちょ、ちょっと! シズくん、仕事はっ?」
「今日は九時入りだからまだ大丈夫。というか、そんな目で俺を煽っておいて、このまま帰れって?」
「煽ってなんか……」
 反論しかけた唇も塞がれる。声ごと絡め取られて抵抗ができなくなる。
「すごいね、美雪さんって。相変わらず無自覚」
 くすくす笑いながらも彼の脚は真っ直ぐベッドへ向かう。一歩進むごとに左右に揺れる不安定さに、思わず彼の首にしがみつく。そんなわたしに彼が低く笑った。
「美雪さん、かわいい」
 ゆっくりとベッドに下ろされる。身動きすることさえもできないまま、じっと彼を見上げた。逆光で影になった中で薄く光る彼のまなざし。
「美雪さん……」
 軽いキスを繰り返しながら彼は器用に上着を脱ぎ捨てた。ネクタイをつかんで軽く揺さぶって、そして一気に引き抜く。第一ボタンを、そして二番目と三番目のボタンを素早く外す。その仕草に見とれてしまう。こういうのを男の色気というのかもしれない。その目で見つめられると抵抗できなくなる。
「や、ん……」
 首すじを舌先でなぞりながら、彼の指はブラウスのボタンを外して入り込んできた。焦らすようにブラのレース越しに撫でて、そして親指を擦り付ける。
「美雪、さん」
 肌に吐きかけられる息に熱くなる。彼を受け入れる準備を身体が勝手に始める。それがたまらなく恥ずかしい。
「あ……、やぁ……」
 ブラの上から器用にその場所を探り当てると、彼はきゅっと強くつまんだ。パッドに阻まれて指がするりと滑ると、もう一度、そしてもう一度。それを何度も繰り返されると、固く尖ってきてしまう。
「ん、んっ……」
「ほら、勃ってきた」
 言いながら彼は強く爪を擦り付けた。軽い痛みと、それとは違う感覚に身体が小さく震える。わたしの反応に気をよくしたように、彼は低く笑った。
「ホント感度いいよね。おっぱい、気持ちいい?」
「や、だ……っ」
「ヤダじゃないでしょ。イヤならこんなにならないでしょ?」
 指先で素早くブラカップをずらすと、直接つまむ。こよりを作るときのように指先でやわらかくねじられて息が止まった。
「もうこんなになってるの、わかる?」
 指先を細かく動かして、彼は先端を刺激し続ける。時折きゅっと強くつまんで、そして軽く弾く。断続的に襲ってくる痛みと快感に息が荒くなってしまう。
「や、あ……、シズ……くんっ」
 名前を呼ぶと唇を塞がれた。舌を強く絡めて吸い上げる濃いキスに、頭が朦朧としてくる。流し込まれた苦い唾液を飲み込んで顔を上げると、視線が真正面から合う。
「ヤバいよ、美雪さん。その目、すげーそそられるんだけど」
 くくくと低く笑うと、彼は脱ぎ捨てた上着に手を伸ばした。内ポケットから取り出したピンク色の物体に身体が硬直した。
「や、やだ! やだぁっ!」
 それには見覚えがあった。何度か使われたことがあった。彼の思うままに、卑猥なポーズで責められたときのことを思い出し、恐怖に身を震わせる。
「なんで、そんなもの持ってるのよっ!」
「んーと、なんでだろうね? 不思議だよね?」
 そう言って彼は首を傾げて見せたけれど、でも間違いなく確信犯だと思う。普段に持ち歩くようなものでは決してないのだから、最初からそのつもりで持ってきたのだろう。
「それより、なんでそんなにイヤなの?」
 素早く話題をすり替えると、彼はわざとらしく顔を覗き込んできた。そのあまりにも真っ直ぐな視線に眼をそらしてしまう。
「なんで、って……」
 気持ちよすぎておかしくなっちゃうから、すごいことを口走っちゃうから、なんて言えない。
「これ、気持ちいいでしょ? 好きでしょ? こないだだって感じまくってたじゃん」
 だから、イヤなのっ!
 けれど、本当のことを言うわけにはいかない。認めるわけにはいかない。適切な言葉を見つけられずにいるわたしを見て、彼は楽しそうに笑った。
「そうやって、いつまでも恥じらいを忘れないところは初々しくていいけどね、でも今日はぐちゃぐちゃに乱れる美雪さんが見たいんだ」
「いやっ! シズくんの変態!」
 どんなに拒絶したところで彼は聞く耳を持っていない。むしろ、わたしの抵抗をおもしろがっている。それはわかっていたけれど。
「変態って、失礼だな。普通だよ。みんなこんなもんだって」
 くすりと笑うその余裕の表情は普段よりも爽やかな感じで、悔しいけれど見とれてしまう。
「そうは言うけどさ、イきまくってる美雪さんって超セクシーなんだよ。喘ぎ声も最高だし。想像しただけでチンポ勃つって」
「やだ、もう! やだっ!」
 あからさまな彼の言葉がどうしようもなく恥ずかしい。わたしの反応に、彼はわずかに眉をひそめた。
「なんで、そんなに嫌がるの。褒めてるのに」
「そんなの、褒めてないよ!」
 もっと違うことで褒めてくれれば嬉しいのに。
 けれどわたしの主張は彼には受け入れられないようだった。頑固だねと困ったような顔で呟いて、そして軽い溜息をつく。
「まあ、そのお堅いところとのギャップがいいんだけどさ。……ムリヤリするか」
 独り言のように怖いことを言うと、彼は右手でわたしの両手首をつかんだ。そのままシーツに押し付けて、左手を上着の近くに伸ばす。戻ってきた手がネクタイを握っていることに気付いたときは遅すぎた。
「やっ! やだやだ、そういうの、やだっ!」
 けれど彼はわたしの声など聞こえないような平然とした顔で、手首にやわらかなすべすべの感触を巻きつけた。どこがどうなっているのかもわからないまま、簡単に両手を縛り上げられる。それは不思議なほど肌に優しく、どこも痛くない。その慣れすぎた手順が少し怖いときもある。彼は今までどんなことをしてきたのだろうと、それは誰にしてきたのだろうと、考えなくてもいいことにまで思考が流れそうになって、慌ててわたしは目の前の笑顔に視線を固定した。
「怖がらなくても大丈夫、痛いことはしないから。俺は美雪さんに喜んで欲しいだけなんだ」
 彼のその言葉に嘘はないだろうとは、思うけれど。
「それでもやだ。お願い、許して」
 彼は許してはくれなかった。穏やかな笑みを浮かべたまま、モーターにひどく似た低い音を肌に軽く押し付けた。指先が腰を通ってゆっくり下の方へ降りて行く。スカートの上から、ショーツのラインをなぞるように往復する。
「いや、シズくん。やだ……、やだよぉっ」
 布越しの焦らすような弱い振動に、ひざを擦り合せて半泣きで訴えた。
 されていることが嫌なのか、それとも、ちゃんとしてくれないことが嫌なのか。
 もどかしいほど弱い刺激に、身体の奥からとろりと滲み出てきてしまう。どんなに口で否定しても身体は感じているという、その事実が怖かった。
「これじゃ物足りない? もっと?」
 彼はもうそんなわたしに気付いているのだろう。だから笑うのだろう。縛ってでもしようとするのだろう。彼にだけはそんないやらしい女だと思われたくないのに。
「美雪さん、ローター好きだもんね。こうされると感じるんだよね?」
「ちが……やっ、あ……も、やめ……っ!」
 同意を求めるように問われて否定することはできないまま、それでも必死で許しを乞うた。けれど彼はそんなわたしにおかしそうに笑う。
「美雪さんって素直だね、キライって言わないんだ。嘘はつかないの?」
 笑顔のまま、彼は無慈悲にコードで繋がった小さなコントローラーを操作した。

もどるもくじつづく
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