花を召しませ番外編
セクシャルオムレット -1

「もしもし、美雪さん? あのさ、今日のことなんだけど」
 それは、待ち合わせ時間三十分前に彼からかかってきた電話だった。右手でパチパチとキーボードを押さえながら、左手で支えた携帯電話から流れてくる声に耳を澄ませる。
「あ、うん。七時にでしょ」
 付き合うようになって一箇月記念日。
 初めて聞いたその記念日が、一般的にどれほど認知されているのかはわからない。どんなカップルでも当たり前にすることなのかどうか、高校生の頃に一度だけのお付き合いしかしたことのないわたしには見当のつけようもない。有理が『シズにしては気の効いたことを』と笑っていたから、全く聞かない話でもないらしい。わたしの認識はその程度だった。だから、それほどこの日に執着していたわけではなかった。ただ、彼がその日を大切にしようと、そう思ってくれていることが嬉しかった。
 そうは言っても、特に何をするわけでもない。予約する必要もないくらいの、気楽に行ける値段のレストランで夕食を摂って、そしてホテルに行く。予定はただそれだけで、本当に普段のデートと何も変わることのないものだったけれど、それでもとても楽しみにしていた。
「仕事はもう終わりだから――」
「あ、いや、そのちょっと、実は……」
 時間には間に合うと、そう告げようとした言葉が彼に遮られる。その奇妙に暗い響きに、頭の中に嫌な予感が湧き上がる。黙り込んだわたしに彼は言い難そうに続けた。
「えーと、その。さっき、急な予定が入っちゃって」
「なっ……」
 思わず言葉に詰まる。
「だから今日は、ちょっと……その……」
「え。だって、今日って」
「うん、わかってる。ごめんね、言い出したの俺なのに」
 こんなギリギリになって。
 申し訳なさそうなその声に、逆に怒りがつのる。彼の言う『急に入った予定』が何であるのかも行き先も、その相手さえもわかっているからなおさらだった。これが仕事だからという理由なのであれば、渋々であっても納得できたのにと思うと悔しい。
「本当にごめん。この埋め合わせはきっとするから――」
 だからわたしは彼の言葉にそれ以上は何も答えずに、赤いマークのついた小さなボタンを押して通話を終えた。そしてケータイの電源を落として、何もなかったような顔で仕事に戻って、そのまま一時間の残業をした。



「う〜〜っ」
 意味もなく低くうなりながらエアコンのスイッチを入れる。去年に引き続き暖冬だとテレビのニュースで言っていたけれど、それでも十一月に入って少し経てばそれなりに寒くなる。昼間はコートが要らなくても、日が落ちてから数時間もすれば暖房なしで部屋に居るのはつらくなる。それが一人の部屋ならばなおさらだった。
 本当なら今日はシズくんと――。
「やめやめっ!」
 ネガティヴに向いかけた思考を声に出して軌道修正すると、左手に下げていたナイロン袋をテーブルに置いた。脱いだコートをいつものハンガーにかけて、寝間着兼部屋着のスウェットスーツに着替えて、カーディガンを羽織りながらテレビをつけた。賑やかな音楽を背にテーブルに戻り、袋の中身を取り出す。十五センチ四方のプラスティック容器に入ったサラダと生成り色のやわらかな紙に包まれたベーグルは、最近流行りの駅地下街の、いつもはあまり行かない高級指向デリカショップのテイクアウト品だった。
「いただきます」
 お店でつけてくれた、使い捨てだと思えないくらいにお洒落な木のデザインのフォークを指にはさんで、いつもよりも丁寧に手を合わせてからサラダのパッケージを開けた。
 お店で一番人気というシーフードのコブサラダは、たっぷりのエビとホタテと、無農薬有機肥料にこだわった水菜とレタスがウリだった。しゃきしゃきと口の中で大きな音を立てる野菜は新鮮そのものだ。パプリカとゆで卵の色合いがとても鮮やかなのは、見た目だけでも美味しそうだけれど、実際に食べるともっと美味しい。マヨネーズベースのスパイスの効いたソースがいい感じに濃厚で、少し辛みの残ったたまねぎのスライスによく合う。さすがはテイクアウトサラダのくせに一人前七百円というところだろう。一個二百五十円のクリームチーズのベーグルも、爽やかな酸味とまったり具合が……。
「あー、ダメだー」
 なんで、こんな上等なものを買ったんだろう。
 フォークを手にしたまま頭を抱えて、溜息をついた。
 こんなときだから贅沢しようと奮発したつもりだったけれど、それに反って落ち込みそうだった。いつも食べているコンビニの二百三十円の大盛りコーンサラダと百三十円のおにぎりにすればよかったと心から思う。美味しければ美味しいほど逆に虚しさがつのる。そう言う意味では、今までで最悪の食事だ。
 もう一度大きく溜息をついてから、大口を開けてがぶりとベーグルに噛み付いた。
 さっさと食べてお風呂に入って、もう寝よう。



 起きていても寂しいだけだからと、普段よりも随分早くお風呂に入って、一時間以上も早くベッドにもぐりこんではみたものの、そう簡単に眠れるものでもない。
 彼は今頃どこで何をしているのだろうと、そんなことをふと思っては寝返りを打つ。彼女の部屋なのだろうか、それともレストランで食事……?
 あー。もう、やだー。
 掛け布団を頭まで引き上げて、誰もいないのに誰にも聞かれないようにそっと溜息をついた。
 手を伸ばして、枕の横に転がっていた携帯電話を取る。サブディスプレイの数字が、いつのまにか日付けが変わろうとしていることを教えてくれた。眠れないままに時間ばかりが過ぎて行ってしまう。なんてムダな時間を過ごしてしまっているのだろう。そう思って思わず溜息をつく。
 彼に逢えなかった。それだけでこんなに苦しいなんて。



 手の中で何かが急に震えたことに驚いて目を開けて、それでいつのまにか眠っていたことに気付く。そのことになぜか慌てて、相手を確認しないままに携帯電話を開いた。寝ぼけまなこで通話ボタンを押して送話口を耳に押し当てる。
「はい、もしもし?」
 語尾がかすかにぶれるようなノイズ混じりの自分の声を聞きながら、返ってくる言葉を待つ一瞬に、淡い期待を浮かべてしまう自分に苦笑した。彼は今は別の人と一緒にいるのだから電話を掛けてくるはずがない。そんなことはわかっていたけれど。
「あ、もしもし、美雪さん?」
 低くひそめた声はひどく聞き取り難かった。それでも誰なのかがわからないほどでもなかった。二十四年の人生の中で、一番長電話をした相手の声を聞き間違えることはない。それが彼であったのならば、なおさら。
「えっと、こんばんは。シズです」
 話し辛そうなその響きに、ぱちんと音を立てて意識が覚醒した。
「まだ起きてた?」
 どこか遠くから聞こえてくる彼の声は、いつもの軽妙な調子とは随分違った。おそらくは誰かが近くにいて、その人に聞かれないように掛けてきたのだろう。それが誰なのかは考えるまでもないけれど。
「ごめんね、こんな時間に」
「え……あ、うん」
 正負の入り混じった、ひどく複雑な感情がのどを塞いで言葉が出ない。相槌とも返事ともつかない単音を組み合わせただけの声で応えて、息を止めるようにして耳を澄ませて眼を閉じて、彼の息遣いを追った。
 彼が今何をしているのか、どこにいるのか。知りたくない。見たくない。けれど、知りたい。
「もうすぐ、その……帰れそうなんだけど。今からそっち行ってもいい?」
 かすれ気味に聞こえてきた言葉に、声を返すことができなかった。求めることも拒絶することもできないまま、闇に慣れた目を壁に張り付いた時計に向けた。黄色で縁取られた円の中で、やや斜めに伸びた短針とそれよりも少しずれた角度を保つ長針が表わす時間は、一時五分。
「もういいよ」
 携帯電話を耳に押し当てたまま寝返りを打って、そして溜息をついた。
 ベッドに入ったのが十時頃だから、三時間近くもこうして悶々としていたことになる。三時間。それを考えると急にバカバカしくなってきた。男のことでここまで悩んで眠れないなんて本当にバカだと思う。
 わたし、何やってるんだろう。
「日付け変わっちゃったし、こなくていいよ。おやすみ」
 一方的にそれだけを言って通話を切った。携帯電話を放り出すように枕元に置いて、身体を丸めて溜息をついて、強く眼を閉じる。
 寝よう、本当に。もう寝ちゃおう。

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