花を召しませ番外編
セクシャルオムレット -3

 通勤途中の駅の売店で朝まとめて買った物の中から、残っていた梅のおにぎりとクリームパンと言う簡素な昼食を摂りながらかけた電話の声で、彼が快方に向かっている気配はあったけれど、それでもさすがに残業をする気にはなれなかった。少し体調が悪いからと嘘をついて定時に会社を出る。駅からの帰り道にある、普段はあまり寄らないスーパーで、卵と牛乳とドリンク剤を仕入れて足早に部屋へと帰った。
 こういうとき、料理上手な人が羨ましくなる。風邪で弱った彼に、お腹に優しくそれでいて美味しい料理を作ることができれば、『意外にも家庭的なところがあって』と言う、女としてオイシイ評価がもらえる。けれどそれは、全く料理ができないわけではないけれど自慢するほどの腕では決してないわたしには、高いハードルだった。
「本を見ながらなら、なんとか作れなくもないんだけど」
 けれどそれではまるで、調理実習中の学生だ。家庭的という印象からは遠くかけ離れている。
「得意料理はカレーライスです、なんて、小学生のキャンプじゃないんだから」
 自分が情けない。
 それでもお粥くらいは作ることができる。溶き卵を流し入れれば、少なくとも見た目だけは美味しそうになる。味付けは、ごく少量の塩を入れておくだけでいいし、足りなければ彼に自分で醤油なりと入れてもらえばいいのだ。そう思い、一つ頷いた。
 うん、いいアイデア。
 ただ、その程度でも家庭的だとアピールできるかとか、こういう事態に備えて今年こそ料理学校へ通おうかなどと埒もなく考えながら、家への道のりを辿った。
「ただいまー」
「あ、お帰り。お疲れさま」
 鍵を回してドアを開けるのとほぼ同時に、玄関の脇の小さな台所から彼がひょいと顔を覗かせる。手には三センチほど水の残ったカットグラスを持っていて、どうやら薬を飲み終えたところのようだった。
「ちょっとは元気になった、みたい?」
「うん。もうすっかり」
 グラスを置きながら彼は笑った。やはり若いと回復が早い。わたしなら丸一日寝ていなければならないだろう。こういうとき三つの歳の差は大きい。元気になってよかったと笑い返しながら、内心でそんなことを考えるのは年上のひがみ根性だろうか。そんなわたしの心など知らず、彼は明るく頷いてみせる。
「全部、美雪さんのお陰だね。いつもありがと」
「いえいえ。朝はびっくりしたけどね」
 そのせいで遅刻しかけたと言ってはさすがに可哀想だろう。彼にそういうつもりはなかったのだろうから。おそらくは、彼のわたしに対する好意が、彼が意図したものとは少しばかり違う方向へ進んでしまっただけなのだ。
「はい、ごめんなさい。迷惑かけました」
 おとなしく頭を下げるその様子は、カウンタ内にいるときのぴしっとシャツを着ているときとは雰囲気が随分違って、いかにも年下と言う感じだ。ぼさついて寝癖のついた髪が彼を幼く可愛く見せる。けれどそれ以上に可愛いのは、少し丈の足りないピンクのパジャマを着たその姿だ。いけないと思いつつも堪え切れず吹き出してしまう。
「え、なに?」
 目を丸くする彼の表情は子どものようで、その可愛さに拍車をかける。
「いや、だって、その格好……」
 笑いすぎて息が苦しい。途切れ途切れのわたしの言葉に、彼は唇を尖らせた。その反応にさらに笑いがこみ上げる。
「なんだよー。美雪さんがこれ着ろって言ったんじゃん」
「そりゃ、言ったけど、でも……」
「二十歳過ぎた男が全身ピンクですよ。すごいもんがあるよね」
 自分の姿を見おろしながら服の胸元を軽くつまむと、彼は憮然と言った。
 普段は、年相応以上に落ち着いた笑みを見せて誰に対しても軽妙に振る舞う彼の、こんなにも飾らない自然な表情を知るのは、わたし以外に何人くらいいるだろう。もしかしたら『あの人』も知らないのかもしれない。そう考えるのは、くだらない優越感なのかもしれないけれど。
「なに、これってやっぱ罰なワケ?」
 困ったように曖昧に笑いながら、彼は頭をカリカリと掻いた。
「うーん、まあ、そうかな?」
 爆発的な笑いはなんとか収まったけれど、口元にはどうしても残る。笑いすぎて固まったあごから頬を右手でマッサージしながら、もう片方の手で首に巻きついたニットのマフラーを解き始めると、彼が手を伸ばしてきた。マフラーを引き抜くのを手伝ってくれる、優しい仕草。
「あー、やっぱりねー。そうじゃないかなって思った」
「ん、大丈夫。シズくん似合ってるよ。可愛い。――あ、ありがとう」
 ボタンを外したコートを両肩からぽふっと抜き取ってもらいながら振り返ると、唇を尖らせた彼の表情とぶつかる。
「嘘だ、こんなの男が似合うわけないじゃん。んっとに、もうー」
「そんなことないって。すごく似合ってるって」
 コートをハンガーに掛けてくれる彼のキュートな後ろ姿に不適切な返答を返しながら、買ってきたナイロン袋の中身を冷蔵庫にしまった。次いで、トートバッグからケータイと三センチほど残ったお茶のペットボトルを取り出す。テーブルにペットボトルを置いたその瞬間、大きな手のひらがわたしの手を包み込むように握った。驚いて顔を上げると、すぐ間近に彼の悪戯っぽいまなざしがあった。
「ホント、ひどいよな、美雪さんって。俺をからかって、そんなに楽しい?」
 妙にキラキラした目を楽しそうに細めながら彼は低く笑った。その見覚えのある笑みに思わず身構える。けれど身体を引くよりも早く、腕の中に抱き寄せられた。
「俺は、こんなに愛してるのに」
 囁くような声と同時に耳に押し当てられた唇に、どくんとこめかみが疼いた。なまめかしい記憶に繋がるような状況に、心臓が勝手にその動きを早めて行く。
「意地悪な美雪さんには、仕返ししちゃおうかなあ?」
「あ、ちょっ、ちょっと、ダメだって! シズくん風邪……」
「だから、治ったって。もう元気。すごく元気」
 いったい、どっちが意地悪だと言うのか。ざらりと音を流し込みながら、彼は卑猥な仕草で腰を擦り付けた。その言葉どおり、存在を強く主張する彼のものが布越しに押し当てられるのがわかる。
「や、でもダメ! ダメだってっ」
「なんで?」
 素直な声音で応えながらも彼の手は器用に素早く動く。簡単にカーディガンが落とされて、その次にとブラウスのボタンを外す指に慌てた。色気ゼロのモコモコ下着を着ているところを彼氏に見られるなんて、恥以外のなにものでもない。
「やだ、ダメ! イヤってばイヤっ!」
 思わず暴れると、彼は眉をひそめた。
「どしたの美雪さん。もしか、ダメな日?」
「そうじゃ……ないけど」
 曖昧な声で答えると、彼は顔をしかめた。わずかな苛立ちが混じったその表情に慌ててしまう。
「えっとね。その、今この下に、その……シャツ、着てて。それでその……」
「シャツ? 防寒用の?」
「う、うん」
 それ以上は言えなかった。火を噴いたように、あっという間に頬が燃え上がる。けれどわたしの言葉には、きょとんとした表情だけが返ってくる。たっぷり十秒以上も黙りこくったあと、彼は首を捻りながら眉をひそめて下唇を突き出すように尖らせて――つまりは、変な顔をした。
「えーっと、それだけ?」
「うん」
 深く頷き返すと、彼は何度かパチパチと不自然なまばたきを繰り返した。そのまま遠くへ視線を移してどこかをじっと見つめて、そして盛大に吹き出した。
「なーんだ、そんなことかあ!」
「そんなことって! 重要なのよ、女の子にとっては!」
「や、いや、そうかもしれないんだけどさ」
 お腹を抱えてまで笑うのは、どうかと思う。
「あー、びっくりした。とうとう嫌われたのかと思った」
 びっくりした、ドキドキしたと繰り返しながら、彼はぎゅっとわたしを抱きしめる。その強さに、肺に溜まっていた空気が押し出される。思わず『ぐえっ』とうめくと、彼はそれにも笑った。
「やだ、そんなに笑わないでよっ。すごく恥ずかしいんだからね!」
 けれどわたしの必死の訴えにも彼は笑い続けるだけだった。
「そんなの、人間なんだから当たり前じゃん。寒ければ着るだろ、普通」
「それでもやだーっ」
 思わず叫ぶと彼は更に笑った。いったんは止まった指が勢いづいたように次々とブラウスのボタンを外して行く。
「せっかくだし、ちょっと見せてよ。女の人ってどんなの着るの?」
「やだーっ! やだやだ、やだぁっ!」
 けれど彼の大きな手は、わたしの身体を暴れる腕ごと抱きしめて、その抵抗を簡単に押さえ込んだ。ブラウスの前を開いて隙間へ視線を走らせる。白のブラウスの下に着るのだからと、上着を脱いだときにも透けないように選んだベージュのシャツを見て、彼は満足そうに頷いた。
「あ、こういうのでも女の人のってちゃんとレース付いてるんだ、可愛い。――色はあんまり可愛くないけど」
「だから、やだって言ったのにぃっ」
 泣きそうな声になったのは、半分は演技だけれど半分は本気だった。たとえ彼がどう言ってくれたとしても、みっともない姿なのは事実だ。自分でもわかっている。間違っても他人に……それも彼氏に見せていい格好ではない。なのにどんなに訴えても彼は楽しそうに笑うだけだった。わたしの言葉を聞いてくれない、聞き入れてくれない。その情けなさに視界がにじむ。そんなわたしに彼はぎょっとしたように頬を引きつらせた。
「え、美雪さん、泣いてんの? そんなにイヤだった?」
「当たり前でしょっ! シズくんのバカっ!」
 彼には、彼にだけは、こんな姿を見られたくなかったのに。
「ごめんね、ちょっと調子に乗った。美雪さんと一緒にいることが嬉しくて、はしゃぎすぎた。ごめんなさい。俺が悪かった」
 ちゅっと音を立てて目尻にキスをして、舌先でぺろりと涙を舐め取る。小さな声で『しょっぱ』と呟いて、そしてわたしをなだめるような曖昧な笑みを見せた。 
「大丈夫だって。美雪さんはどんなカッコしててもちゃんと可愛いから」
 今だってすごく可愛い。そう言いながら彼は頬に額に唇に、軽いキスを繰り返す。
「もう、そんな嘘ばっかり!」
 こんな格好が可愛いわけない……のに。
「ホントだって。可愛くなけりゃいいのにって、そう思うときさえあるくらいなのに」
「何よ、それ」
 彼の不穏当な発言に顔を上げると、彼は一瞬だけしまったという表情を浮かべて、そして肩を軽くすくめた。
「んっと、だからさ。美雪さんのこと好きにならなかったら、もっとバカやって楽にやってけたのにって。――あ、そういう意味じゃないよ。俺がバカだってことを気付かせてくれたんだから、すごく感謝してる」
 思わず口をはさもうとしたわたしを目だけで押さえると彼は早口で言い切って、そして頬にもう一度キスをした。
「だからさ――って言うのも変な流れなんだけど。でも俺、さっきからずっとおあずけ状態で、うずうずしてるんだよねー」
 軽妙な口調はそのままに、彼のまなざしの奥に淫猥な光が混じり始める。その変化には見覚えがあった。彼がわたしに対して欲情している合図だった。激しすぎる彼の欲求に戸惑いながらも、その言葉と視線は、男性に求められることの優越感と幸福感で満たしてくれる。そうやって、彼はいつもわたしを虜にする。
「朝からなんも食ってないしさ、このままだと飢えて死んじゃう」
 低い囁きがくすぐるように丁寧に耳を這う。尖らせた舌先が、複雑に入り組んだ耳の軟骨の窪みへと唾液をなすりつける。ちゅっと耳朶を吸い上げられて身体が震えた。
「だったら、すぐにご飯……」
「そう言うわけで、美雪さん食べちゃいたいんだけど」
「ちょっと待っ……! あ、や……だっ」
 彼の舌がぬるぬると首すじを這い回る。抵抗する暇もなく唐突に始まった舌の甘い攻撃に、胸の奥が熱くなる。こんなにも簡単に彼の思いどおりになってしまう自分が恥ずかしい。本当はされるのを待っていたのだろうと思われるのが怖くて、わたしは身体を強張らせる。

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