この指を伸ばす先-9

 スイッチの入った携帯電話が最新のJポップを鳴らし始める。ぴくりと肩を震わせると、理香は薄い毛布から右手を伸ばした。
「んー。もう、朝ー?」
 枕元にメガネと並べて置いていた携帯電話を握って引き寄せると、理香はそれをぱちりと開いた。ボタンを押して音楽を止めようとして、首を傾げる。
「あれ……?」
 ライトストーンで囲まれた大きな液晶画面には、携帯電話からの着信であることを示すゼロから始まる十一桁の数字が表示されていた。先ほどの音楽は目覚ましのアラームではなく、電話が掛かってきていたのかとぼんやりと理香は納得した。見知らぬ番号からの着信は普通ならば警戒するのだろうが、理香はアパートに固定電話を引いていないため、携帯電話の番号が社内の書類にも連絡先として掲載されている。社内の人間から電話が掛かってくることも何度かあった。それにしてもこんな早くに誰からだろうかと思いながら、理香は急いで通話ボタンを押した。
「はい、もしもし……?」
「おはよう、理香」
 笑みを含んだ、爽やかとも言える声が返ってくる。理香はしばし手の中の小さな機器を見つめ、そしてもう一度そっと耳に押し当てた。
「あの……。どなた、ですか?」
「どなた? おいおい、俺の声をもう忘れたか」
 そう言われたところで理香に心当たりはない。馴れ馴れしいごく親しい間柄ならではの言葉は、おそらく恋人相手に掛けたつもりなのだろう。男の方からモーニングコールをするとなればアツアツのカップルなのかもしれない。それを羨ましいと思いながらも、理香は番号を間違っていると告げようとした。
「あの、失礼ですが……」
 そこまで言いかけたところで、先ほど『理香』と呼びかけられたことが稲妻のように戻ってくる。
「理香?」
 傲慢な口調、強引な腕。自信に満ちた態度と落ち着いた声。濃い眉の下の、優しそうにも冷酷にも見えるまなざし。どれほど忘れようとしても忘れられない、何度も自分を貫き悲鳴を上げさせた激しさ――。
 まさ……か……。
「りょ、りょうじ……せんぱい……?」
「やっとわかったか。おはよう、理香」
「お、おはようございます」
 わざとらしい溜息混じりの亮治の声に応えながら、理香は枕元に残ったままのメガネに手を伸ばした。薄いピンクのセルフレームを片手で開き、耳に引っ掛ける。視線の焦点が合わずほわりと膨らんでいた部屋全体が、メガネで矯正されることによってきゅっと引き締まる。クセのある髪がヨダレを糊に頬に張り付いていることに気付いた理香はそれを左手で梳き流しながら、毛布を足先で払い除けて布団から抜け出た。
「どうしたんですか、こんな朝早くに」
「ん、ああ。いや、何」
 訝しげな理香の言葉に意味のない言葉をいくつか並べると、亮治はこほんと軽い咳ばらいをした。
「理香、今すぐ出て来られるか?」
「ムリです」
 間髪入れず答えながら、理香は壁に張り付いた丸い時計を見上げた。デフォルメされた小さなうさぎが示す時間は、六時五十二分。理香の普段の起床時間よりわずかに早い。
「どれくらいで出られる?」
「どれくらいと言われても、えーと……」
 理香がいつも起きるのは七時ちょうどだった。着替えとメイク、ヘアセット、それにオレンジジュースとカップヨーグルトと買い置きのミニマドレーヌという簡単な朝食を摂るだけでも、それほど手早いとは言いがたい理香には時間がかかってしまう。
 アパートから駅まで歩いて十二分、時折駆け足を交えながらなら九分。乗り換えを含めて電車移動が約三十分。更に駅から八分歩いて会社へ入り、更衣室に駆け込んで制服に着替える。それが理香の毎朝だった。
「えと、ちゃんと九時までには出勤しますから」
「家を出るのは?」
 畳み掛けるような問いかけに理香はわずかに眉をひそめた。けれど寝起きの思考は積極的に動こうとはしない。亮治の求める答えの本質を見抜くこともできないまま、理香はもう一度壁時計を仰ぎ見た。
「ええと、だいたい八時くらいです」
「一時間もかかるのか?」
「悪かったですねーっ」
 呆れたように返ってきた言葉に、顔を洗うだけで人前に出られる男とは違うと理香はムッと唇を尖らせたが、電話の相手にはそこまでは伝わらない。
「いや、女の支度は時間がかかると相場が決まっているからな」
 くっくっくと低く笑う声が返ってくる。相変わらずの余裕のある言い回しに理香は柳眉を逆立てた。
「わかった。じゃあ一時間後に」
 その言葉を最後に、理香が抗議しようと口を開く間もなく、亮治からの電話はぷつりと切れた。
「一時間後って……違いますよ? 会社に着くのは九時前で、八時は家を出る時間……って、ちょ、もしもしっ? 先輩ーっ」
 受話口から返ってくる音声の変化に通話が途切れたことはわかっていたが、理香はそれでも言葉を続けた。耳から外して液晶画面に浮かんだ『通話終了』の文字を確認し、溜息をつく。
「もうーっ、違うって言ってんのに……」
 折り返し電話をしようかと一瞬迷ってから、おそらく亮治は一時間後と二時間後を言い間違えたのだろうと考え直す。今まで考えたこともなかったけれど、あの人は意外とそそっかしいところがあるのかもしれない。そんなことを思いながら、理香は静かになった携帯電話をぱちりとたたみ、ゆっくり立ち上がった。
「お腹空いたし、今日は先にご飯食べよっと。それから顔を洗ってコンタクト入れよ」
 いつもとは逆になった手順を口に出して確認しながら、理香は両開き扉の押入れを開けた。
 押し入れの下の段の半分には、今の時期には使わない一人用サイズの電気コタツの布団が、その手前には掃除機が、もう半分にはホームセンターで購入したすのこ敷き詰められていた。すのこの上に毛布と敷布団を三つ折りにして入れ、すぐ上に枕を置く。そのまま立ち上がり、理香は上の段に横に二つ縦に三つ並んだ押入れサイズのプラスティック製チェストの引き出しを開けた。
「えーと秘書って、やっぱりスーツとか、そんなちゃんとした格好しないといけないんだよねぇ……。あたし、スーツってあんまり持ってないんだけど……」
 ぶつぶつ呟きながら、理香は一番上の引き出しから下着を、二段目からはインナー用のホワイトシャツを手に取った。押し入れをぱたりと閉じると次は壁際のクローゼットを開け、前にいつ着たのかも覚えていない紺色のスーツを引っ張り出した。
「入らなかったらどうしよう。別に太ってない、と思うけど……」
 不安げに言いながら、理香は空いた右手でパジャマの上から自分のウェストを軽くつまんだ。



 目覚め方と時間が少し違ったものの、それ以外は理香にとって普段通りの朝だった。
 三年前、就職活動用に買ったスーツのウェストが心配したほどもなくするりと入ったこと、いつも苦手で失敗することが多く朝の不機嫌の元でもある眉がここ何日かでトップ三に入るほどきれいに書けたこともあって、気分よく出社へ意識を向けることができた。鼻歌混じりに、学生の頃から使っているキーホルダーを片手にドアに向き直り、カギをかける。
 その途端。
「おはよう、理香」
 背中へと飛びかかってきた聞き慣れてしまった声に硬直した。
「せ……せんぱ、い……?」
 思わず棒立ちになった理香の肩と腰に背後から長い腕が巻きつく。布越しに感じる強い力に首だけで振り返ろうとした理香の頬に亮治の唇が押し当てられた。
「ちょ、ちょっせんぱ、こんなとこでやめて……うげっ」
 不意打ちのキスに驚いた理香は、上半身を拘束されるように抱きしめられた中で何とか自由になる腰から下をじたばたと動かすが、肺の中身を絞り出すかのような勢いで一気に強まった腕にささやかな抵抗も止まってしまう。
「こら、そんなに擦り付けるな。朝っぱらから俺を誘惑する気か?」
「ゆうわ……って、だ、誰がっ! 放してくださいっ!」
 覆い被さるように抱きしめられたまま、通勤用のバッグを振り回すように暴れる理香にくすりと笑うと、亮治はゆっくりと腕を解いた。
「やれやれ、相変わらずムードがないな、理香。上司がわざわざ迎えに来たんだ、もうちょっと歓迎してくれてもいいと思うが」
「頼んだ覚えはありません!」
 突き放すように叫ぶ理香に、三つ向こうのドアから顔を出した学生らしき男が胡乱な目を向けた。その視線に頬を赤らめ声を収めると、理香は俯くように玄関の施錠を確認し、カギをいつも通りバッグの内ポケットに入れた。
「こんなことしてくれなくても、仕事くらい自分でちゃんと行きます。子どもじゃないんですから」
「そうか。確かに、それはそうだな」
 軽い言葉で肯定する亮治を理香はちらりと見た。
「確かに子どもじゃなかったな。子どもはあんないやらしい声は出さない」
「そ、そんな意味じゃっ」
「違うのか?」
 からかうように口の端を歪めて笑う亮治に、理香は諦めの溜息をついた。一対一の場ならばらともかく、小さなドアの立ち並ぶアパートの廊下で言い争えば、耳を澄まさなくとも住人に丸聞こえだろう。学生の頃は周囲の目も気にせずにいられたが、争点がセクシャルな内容になるとわかっている今は、人目のある場所での亮治との口論は厳禁だった。そうでなくても、居住地周辺で噂の的になるような行動はできるだけ避けたい。
「まあ、それはいい。行くぞ、理香。話なら途中でもできる」
 言いながら亮治はさりげなく腰に手を廻し、理香を促した。一歩引いて手をかわしながら頭一つ分高い位置からの視線に眉を逆立てて見つめ返すが、返ってくるのはわずかに苦笑の混じった余裕の態度だけだった。
 誰にどんな目で見られようとも気にしない、悪びれた様子のない堂々とした姿は、昨日とはほとんど何も変わってはいなかった。オーダーメイドなのか、身体にぴったりと合ったダークグレイのスーツと一点の汚れもない真っ白なシャツ、顔が映りそうなほどに磨き上げられたビジネスシューズ。なめらかな艶を放つネクタイは落ち着いたベージュ地に点線のような細い黒のラインが斜めに入っていた。
 ――相変わらずのお坊ちゃまぶりで。
 せめてもの仕返しにと、理香は亮治に聞こえないほどの小声で毒づいた。
 裕福な家庭で育ったとは言いがたい理香にとって、オーダーメイドスーツなど夢のまた夢だった。仕事場に着て行けるようなきちんとしたスーツは、三年前に量販店のリクルートセールで買ったジャケットとパンツとタイトスカートの三点セット、それに喪服を兼ねたワンピースとボレロのアンサンブルの二つだけだ。入社式も新人研修もこれらの組み合わせで通した。
 どちらかと言えばカジュアルな服装が好きな理香は、夏場はサンダル、秋冬はブーツがメインで、パンプスもバッグもきちんとしたものは片手で数えられるほどしか持っていない。女子社員の制服があった昨日まではどんな服装で出勤しても着替えれば済んだため、ジーンズにTシャツ足元はスニーカーというラフな格好で通勤しても何の問題もなかったが、なぜか制服が支給されない秘書職に就いてしまった今、毎朝のように着て行く服に悩まなければならないだろう。昨日なしくずし的に手に入れた黒のパンツスーツを頭数に入れても、一週間も経たないうちに困窮するのはわかりきっている。そんな自分に比べてこの男の優雅なことを思うと意味もなく苛立ってくる。
「どこへ行くんですか。あたし、仕事が……」
「だから、俺がおまえの上司だと昨日言っただろう。俺と一緒に来ればいい。それがおまえの仕事だ」
 言いながら亮治は理香の腰を軽く叩き、自分が先に立って歩き出した。
 自分と一緒にいるのが仕事だと言う亮治の理論は呆れるほど乱暴なものだが、理香は秘書の実態を知らない。そのようなものなのかと首を捻りながら、理香は亮治のあとを追った。
「急げよ。予定時間に遅れる」
「はいっ」
 わざわざアパートまで迎えに来るとは何事かと思ったが、仕事と言うのは嘘ではないようだった。本当に急な仕事が入ったのかもしれない。自分が知らないだけで、大切な会談があるのかもしれない。
 亮治の仕事内容さえも知らないが、役員が一人で出歩くのは威厳に欠けるのだろうと理香は考えた。さして役に立たない秘書であっても鞄持ち程度には使える。能力的に考えても、自分にできることはその程度だ。もっと重要な仕事は達也に振り分けるのだろうと、努めて前向きに思考を巡らせる。昨日の今日で亮治を信用するのは難しいが、上司命令とあっては従わないわけにもいかない。そう考えるほどには理香も会社に馴染んでいた。
「で、どこへ行くんですか?」
 慣れないパンプスとタイトスカートで懸命に歩いてくる理香をちらりと振り返り、亮治は立ち止まった。アパート前の、狭い道の端に停められていたメタリックシルバーの国産高級車をあごで指し、ポケットから取り出したカギを右手で示しながら軽く頷く。
「これだ。乗れ」
 どこへ行くのかって訊いたんだけど。
 内心で不服げに唇を尖らせ、けれど理香はおとなしく助手席のドアを開けてその隙間に滑り込んだ。

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