この指を伸ばす先-22

「さむ……」
 すぐそばで聞こえた声に、高瀬はぬるま湯のようなまどろみから覚めた。いったい何がと思うより早く、背に軽い衝撃が当たる。肩越しに振り返ると、女がひとり高瀬の背に張り付いて居心地よさげに丸まっていた。
「ん? ああ……今西くん……」
 誰だったかとわずかに眉をひそめてから、高瀬は子どものような寝顔の元部下の名前を思い出した。いつの間にか眠ってしまっていたと小さく嘆息し、そして慌てて腕を毛布から引き上げる。
「今……何時だ?」
 六時十七分を示す腕時計に高瀬は思わず舌打ちした。約束の五時を大幅に過ぎている。連絡だけでもしておかなければと、身体にまとわりつく毛布を剥いだ。ソファのテーブルに置いたままの携帯電話を取ろうと起き上がりかけて、そして深く息をついた。
「もうダメだな……」
 ゆっくりとシーツに倒れ込み枕に頭を乗せると、高瀬は肩まで毛布をかぶった。むーむーと口の中で何かをつぶやきながらにじり寄ってくるやわらかい身体を抱き寄せ、頬に落ちた髪を指先で払う。
 ――最後の取引を不意にしてしまった。
 いたちの最後っ屁と言えばあまりにも品がないが、もうこれ以上のものは今後は出てこないと言い切ってもいいような条件の案件だった。もちろん自分ひとりで取引が成立させられるわけはなく、課長が同席することになってはいたが、あの男ではロクな説明もできないことはわかっている。地位の入った名刺だけにしか存在価値のないような男だと、先方もとっくに承知していることだろう。そんな男を鼻の利く連中が信用するはずもない。取引は流れたと見て間違いはない。負の情報はあっという間に流れる。限りなく黒に近いグレーを食んで肥え太るマネーゲーマーは敏感に反応する。今後の取引は難しくなるに違いない。七時からのアポイントメントも断りの連絡が入ってきている頃合いだ。携帯の留守電には聞き慣れただみ声で苦情と厭味と哀願と恫喝の混じった伝言が残されているに違いない。慌てふためき周囲に八つ当たりをする課長の憔悴した表情を思い浮かべ、高瀬は知らず冷笑した。
 ――しかし、利用しようとした女にハマってしくじるとは、思ってもみなかった。
 しかも、こんな子どもみたいな顔をした女に。
 夢でも見ているのか、眉をしかめ唇を尖らせて小さくうなる理香を見下ろし、高瀬は自嘲気味に笑った。
 それでも、信じられないような女を思う存分経験をできたのは、男としては非常にラッキーだったと思ってしまう。自制できたとはさすがに思っていないが、それでもこの程度で済んでよかったと、高瀬は密かに自分をなぐさめた。免疫のない男なら搾り取られ食い尽くされ、寿命までもすり減らすことだろう。
 ――それでもまだ、できればもう一回と思ってしまうのが怖いよな。
 あふれんばかりに蜜を湛えた粘膜の熱い感触を思い起こし、高瀬は知らず生ツバを飲み込んだ。絶頂に痙攣し細かく蠢く理香の内部に茎を撫で絞られる感覚は、経験豊富な高瀬でもさえも未知のものだった。溶けたプラスティックのように熱く絡みつき細部にまで入り込み、もっとも敏感な部分を舐めるようにくすぐられた経験は、どれほどさかのぼっても記憶に存在しない。女に攻められ耐え切れずに達してしまったという屈辱以上に、何を圧しても得がたいほどの甘美さだった。
 あれをもう一度と考えるのは男の本能だ。自分が飛びぬけて貪欲なわけでも、呆れるほどに浅ましいわけでもない。自分を正当化する思考に同調して、散々酷使されたはずの相棒までもが再び熱を帯び始める。トランクスの中で自己主張を始める自らの反応に気づき、高瀬は笑った。
 ――四度目に挑戦しようとは、俺もまだまだ若いってことか。
 だが残念なことに、正体もなく眠る女を犯す趣味は高瀬にはない。くぅくぅと寝息を立てる子どものような寝顔は、あのような内部を隠し持つ妖艶さからはほど遠いが、だからと言って叩き起こして再確認と言うのも鬼畜すぎるだろう。よく見れば、閉じられたまぶたは薄く黒ずみ疲労を訴えている。立て続けに三戦を挑まれては疲れもするだろう。また次の機会に、と楽観的にはなれないが、それでも今日のところはあきらめるしかない。
「先にクリアしないといけない課題もあることだしな」
 噂の切れ者甥っ子殿がどこまで許容してくれるかはわからないが、自己保身のためにもここが踏ん張りどころだと大きく頷くと、高瀬は安らかな寝顔にそっと唇を寄せた。
「ムリかもしれないけれど、頑張ってみるよ」
 目を閉じたままの理香に小さく笑いかけ、高瀬は名残惜しげにベッドから抜け出た。





「総務の高瀬です」
「はい。少々お待ち下さい」
 榊原執行役員に面会を、と言いかけたところで低い男の声がその先を遮った。待つと言うほどの時間もなく、開いた自動ドアの向こうに現れた大きな人影に、高瀬は知らず嘆息した。
 重役専用のフロアとは言え、基本的に社内の人間しか出入りできない階層ということもあって、エレベーター前のスペースだけはフリーチェックに近い。しかし半透明の自動ドアの前に立ったところで間違っても黙って開いてはくれず、ドアの前に佇むガードマンに用件のある部屋に取り次いでもらっての入室となる。その際は身分を問わず、廊下で立ったまま待たされる。前もって用件を伝えていない場合はなおさらだ。総務課の主任など執行役員からすれば吹けば飛ぶような存在だろうに、用件さえ聞かずあっさりドアを開けてくれると言うことは、おまえの存在はすでに承知していたと宣言されたものと考えていい。全てを了解の上でヘタな言い訳を聞いてやろうと薄寒いまなざしで待っているのだろうと、高瀬は内心で頭を抱えた。
「こちらへ」
 促されるままに高瀬はフロアに脚を踏み入れた。どうやら噂の切れ者甥っ子殿はなかなかの性格のようだと、まだ見ぬ執行役員の代わりに目の前の大きな背中を睨みつけながら高瀬は廊下を進んだ。会ってくれるだけましだとも思うが、それでもなぶられるために向かうのはいい気がしない。
「マネージャー。高瀬主任がお越しです」
「入れ」
 尊大に返ってきた声に目で入室を促す体躯に頷き返しながら、ちらりとドア横のネームプレートが空白のままなのを確認した。自分に周囲に目を配る余裕が残っていることにわずかな矜持を覚えつつ、高瀬は大きく開かれたドアをくぐった。
「失礼します」
 ドアが閉まる音を背中で聞く高瀬の目に入ったのは、入ってくる者を圧倒するかのような執務机と黒い革張りの椅子、そしてそこに座る人物の目だった。黙って目礼する高瀬に一見穏やかな、けれどゆっくりと腹が冷えて行く視線が投げかけられる。
「総務部の高瀬浩志主任、だったかな? わざわざ済まんな」
「いえ、とんでもない。面会をお許しいただきまして、ありがとうございます」
 深く頭を下げた高瀬の姿に、亮治は達也に目配せした。察した達也が壁に畳み掛けられていたパイプ椅子を軽く持ち上げ、高瀬に近づいた。
「見ての通り、何も揃っていない状況でして。申し訳ありませんが、こちらで」
 慇懃に微笑みながら達也は、急いで組んだ結果、見た目を度外視することになった配線から尾のように長くコードを引いたパソコンと、乱雑に積み重なった書類が散乱する机のあいだを抜け、執務机の真正面に椅子を据えた。
「どうぞ、こちらへ」
 振り返って軽く頭を下げ、高瀬に着席を求める。置かれた椅子の種類とその位置にわずかに眉をひそめ、けれど高瀬は促されるまま簡素な椅子に腰を下ろした。
「さて、と。用件は何かな?」
 緊張した高瀬の周囲の空気を愉しむかのように黙って状況を見ていた、明らかに年下の執行役員は、静かな笑みを浮かべたまま口を開いた。
「こちらとしてもきみに訊きたいことはたくさんあるんだが、とりあえずはそちらの話を聞いてみよう。言ってみなさい」
 圧倒的優位に立つ者の嘲笑の混じった慈悲に、高瀬は気付かれないようぐっと奥歯を噛みしめた。猫科の猛獣が捕らえた獲物が息絶えるまで遊ぶぼうと決めたかのような残酷な笑みには見覚えがある。百戦錬磨のマネーゲーマーの中にそのような性癖を持つ者は多かった。相手がどこで潰れるか、ギリギリまで首を絞めて愉しむような輩は、しかしそれに耐え意表を突く反応を見せれば信頼を得ることもできる。相手の試練を何度も乗り越え、驚かせれば驚かせるほど信頼は強固に揺るぎないものになっていく。経験的に高瀬はそのことをよく知っていた。ここが踏ん張りどころだと自分に言い聞かせながら、高瀬は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「そうかしこまることもない。気楽に話してくれればいい。私はそれほど礼儀にうるさいほうではなくてね」
 砕けた口調で明るく笑うが、高瀬に向けられている目は決して笑ってはいなかった。油断すれば一気に奈落へ落とされるだろうと、高瀬はこぶしを強く握った。
「わかりました。もうすでにご存知だとは思いますが」
 よく研いだ刃先で肌を撫でられるような緊迫感を高瀬は決して嫌いではなかった。信頼できる使える駒が欲しいと考えるのは上に立つ者に共通するのだろう。一番の問題は、使いこなせるかどうかだが、そこまで知恵が回る者などそうそういるものではないと、おそらくはどこかで限界まで追い詰められているであろう元上司の脂ぎった顔をちらりと思い浮かべた。
 しかし残念ながら、上に昇り安定するほど、どれほど有能な者も心地いい言葉を求め、周囲もそのように接するようになる。流れない水が澱み腐っていくのが世の常である以上、ある程度は仕方のないことだが、それだけでは社会は無能になった成功者に食い潰される。目の前の執行役員はまだ腐っていないように見える。媚びるが勝ちか、受けて立つが有利か。話の持って行きかたを幾通りか考えながら、高瀬は腹のうちで一つ頷いた。
「わたくしの直接の上司である、総務課長の背任横領の件ですが――」



「では、これで失礼致します。本日はありがとうございました」
 深く一礼し、ドアをゆっくりと閉める。かちゃりと鳴った音に息を吐きたくなるのをぐっと飲み込んで高瀬は頭を上げた。
 きびすを返すと、高瀬は重くなった足をエレベーターホールへと向けた。目をつぶれば今すぐに眠りに落ちることができそうなほどの疲労は、精神的なものと肉体的なものが半々だろう。いや、もしかしたら精神的なものが大半を占めているかもしれない。女との三戦より疲れるとは恐れ入る。
 こつこつとかかとを鳴らしながら、高瀬は渡されたばかりの辞令書を開いて文字を辿った。もうすでに五回ほども読み返した文章は、しかし何度読んでも腑に落ちなかった。理解できない。納得がいかない。これ以外の辞令ならば、それがたとえ懲戒解雇であったとしてもそう言うことかとすんなり飲み込めただろう。
 ――それでもなんとか、生き残った。
 ほっとすると同時に、元部下の眠る部屋へ戻りたいとの不謹慎な考えもちらつかなくはないが、残念ながら再度部屋へ踏み込むための正当な理由は見つからない。ここはおとなしく白旗を掲げたままにするのが正解だろうと、埒もない事を考えながら高瀬は左手首に目を落とした。時計の針は十時を少し回った辺りを静かに指していた。あの部屋で三時間以上もやり合っていたのかと、眉をひそめて深く嘆息した。よく耐えたと自分を褒めたい気もするが、それよりもう二度とあんな雰囲気はご免だとの思いが強い。ようやく与えられた自由に、よろよろとフロアを出て、申し訳程度に開いた自動ドアを抜ける。重い腕を上げてエレベータの呼び出しボタンを押してから、高瀬は痛みさえ感じるほどに凝った肩を少しでも和らげようと首をぐるっと回した。
 ――まったく、嫌なヤツらだよ。
 全てを見透かしているかのような人の悪い笑みを浮かべて高瀬の嘘に頷く執行役員と、それとは対照的に、慇懃な態度を崩さないまま虚偽の報告の細部を何度も確認してくる物静かな巨漢を相手にしていると、神経が擦り切れてなくなってしまうのではないかとさえ思えた。何度も訊き返され言質を取られるのも不快だが、嘘だとわかっていながら笑顔を見せてくる様子も恐ろしい。
 ――それにしても。
 やってきたエレベーターに乗り込んでボタンを押してから、高瀬は握ったままの辞令書をちらりと見やった。さすがに一言一句とまではいかないが、その文章の内容は覚えていた。普通ならばこのような辞令は絶対に出ないと言い切ってもいいほどの内容に、開いた口が塞がらなかった。いったい誰がこのようなことを考え付くのか、そして上からのオッケーが出るのか、出させることができるのか。裏の裏を読もうとすればするほど、寒気に近い感覚が肌を薄く舐めて行くようだった。
 ――ただのお坊ちゃまじゃなかったってことか。
 巨漢の口ぶりでは、首謀者たる課長は解雇されたようだった。退職金と企業年金の相殺で、背任と業務上横領罪での告訴だけはなんとか免れたらしい。それに比べれば、平社員への降格程度で済んだのは不幸中の幸いだった。社内処分で済めば外には漏れない。不景気の底も見えないこのご時世、懲戒解雇された者に再就職先などある訳もない。
『じゃあそう言うことで。明日から改めて、よろしく』
 楽しげにクスクスと笑いながら右手を差し出してくる執行役員を思い出し、高瀬はもう一度深く嘆息した。

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