花を召しませ番外編
ライクネスラブ -1

 初めて見た瞬間、目が離せなくなった。
 この人だと思った。この人が欲しいと思った。誰かを好きになったことは何度もあったけれど、あれほど強く一人の女性に固執したことはない。本人の意思を無視してもとさえ思ったし、実際にそれを行った。
 ここまで入れ込んだ理由は、本当はわかっていた。けれど、気付きたくなかった。言いたくなかった。思い出したくなかった。
 ――絶対に。





「はい、お疲れー」
 朝の四時、お客さんが全員帰ったクラブは、異様なまでの静けさを取り戻す。全ての音と派手なカクテルライトが消えたのを確認し、片耳にだけ入れていた耳栓を抜く。
「お疲れさんー」
 いつのまにか流しの中でちょっとした小山になっていた洗い物を一つ一つ片付けながらふと顔を上げると、ナチュラルハイ丸出しの声で挨拶をしながら幾人かのスタッフがカウンターに近寄ってきていた。どうやら掃除が終わったらしい。仕事明けのその表情は、見る者の頬を緩めるほどに間抜けだった。
「シズー。こっち、ミネラルウォータとジンジャエール二つずつ」
「ウーロン茶ちょうだい」
「俺、ビールね」
 カウンタに張り付くように並んで口々に叫ぶ様子は、親鳥にエサをねだる雛に似ているような気がする。思わず漏れそうになった笑いを笑顔にすり変えて頷き、それぞれの手に望みの物を渡して行く。
「はいどうぞ。お疲れさまでした」
「さんきゅー」
「んじゃ俺はビールと……あと、すっげー腹減ったんだけど、なんかない?」
 基本的にスタッフの飲食代は全品半額だが、ラストまで残った場合はオーナーが自腹分の半額を持ってくれることになっている。食べ放題飲み放題と言うわけだが、さすがにそこまで厚かましいことを言い出す者はそうそういない。大抵はのどを潤す程度、小腹を宥める程度だ。
「今日は結構出ちゃったんですよ。明日のこともあるんで、出せるのはカレーと今日のまかないの残りくらいですかね。あとは……ホントに軽いものしか」
 最近はレストラン顔負けのメニュを揃えるクラブもあるらしいが、普通は酒の肴になるスナック類が中心だ。レトルトや冷凍食品メインの簡単な料理ではあっても、一皿五百円均一というのは他店に比べればリーズナブルだ。そのせいもあってか、女性客を中心に軽食の注文もそこそこの数が出る。カウンタ内に立つ者の権限で、あるもので作るのならば勝手にメニュを変えて構わないとも言われている。その辺りは割と自由だ。もしかしたらオーナーと昔からの知り合いということで、多目に見てもらっているのかもしれない。
「今日のまかないって何?」
「鶏の照り焼き丼ですよ。あれ、リョウさん食べてません?」
「食ってないんだよね、これが」
 派手な色遣いのオープンシャツを着たDJは軽く肩をすくめると、じゃあそれ出してよ、と甘えるように言った。
 彼女が相手ならばともかく、男に甘えられても嬉しくもなんともない。わかりましたとだけ答えて、冷蔵庫に積み上げられた薄いプラスティックの保存容器の小山から、いくつか引っ張り出す。
「あー、疲れた」
 溜息混じりに呟きながらカウンタにもたれてタバコに火を点ける男を横目に、水切り籠の中からまだ少し濡れた皿を一枚取り出し軽く拭いて、保温ジャーの中に残っていたご飯を丸く盛る。薄く切った鶏肉を円周状に丸く並べて甘辛いたれを掛け、上に貝割れ大根を散らす。
「あ、マヨネーズいっぱい掛けてー」
「はい」
 俺の手元を覗き込むように身を乗り出してくるDJに目で軽く頷き返しながら、網目状に交差するように全体に普段よりも多目にマヨネーズを掛けた。
 赤黒い鶏の上に緑の貝割れ大根、そしてざっくりとかかったアイボリーのマヨネーズの対比が鮮やかだった。残り物にしては上出来だろう。そう納得してカウンタに置き隣にグラスビールを並べ、そして割り箸を手渡す。
「お待たせです、リョウさん。どうぞ」
「お、うまそうじゃん。さんきゅー」
 ぱちりと箸を割る音を聞きながら取り出したタバコに火を点けた。できあがった丼をぱくつく横顔を眺めながらゆっくりと煙を吹き上げる。
「うん、うまい」
「ありがとうございます」
 些細なことではあるけれど、それでも自分が作ったものを美味しそうに食べてくれると気分がいいものだ。どこかくすぐったいような不思議な達成感がある。
 これは、自分で作っておいてなんだけど結構いい感じだ。美味しそうに見えて意外に簡単で、材料もすぐに揃うものばかりだ。今度、美雪さんに作ってあげよう。いつもコンビニのお弁当食べてるみたいだし……。
 ふとそう思った瞬間、自然と口元が緩んだ。
「やらしいよシズ、ニヤニヤ笑っちゃって。このあとなんかイイコトの予定でもあんの?」
「違いますよー。帰って寝るだけです」
 逢えればいいなとは思うけれど、美雪さんは今頃は気持ちよく夢の中だろう。
 彼女はいわゆる普通の時間帯で仕事をしているのだから、深夜型の俺につき合わせるのは気が引ける。それなら早く寝て早く起きて、俺が彼女の生活サイクルに併せるほうがいい。健康的だし、何より彼女に負担を掛けずに済む。
「えー、ホントに?」
「本当ですよ」
 それでも、彼女のことを思うだけでその名前を思うだけで、嬉しい。





「え、これシズくんが作ったの?」
「はい、そうです」
 帰ってくる彼女をドアの前で待ち伏せ、驚く顔を手早くシャワーに追い出して台所に入り込んだ。三十分後、ピンクのパジャマ姿で同じくピンクのバスタオルで髪を拭きながら出てきた彼女は、俺の手元を覗き込むと目を丸くしてそう言った。
 このピンクのパジャマには見覚えがある。見覚えと言うか、着たこともある。思い出したくないと言うほどでもないけれど少し恥ずかしい記憶だ。それでも、心優しい彼女の精一杯の仕返しだったのだろうと思うと、それも微笑ましい。女の嫉妬はウザいなんて言うやつらの気が知れない。彼女が嫉妬してくれるのは俺のことを想ってくれている証拠だ。喜ぶべきことだ。
「はい、美雪さん、座って」
「はーい」
 語尾にハートマークが付きそうな声でそう返事をすると、彼女はいそいそと椅子を引いた。その目の前にできあがった鶏の照り焼き丼を置く。丼用の底が丸く深い皿がなかったのでパスタ皿を使ったけれど、それがカフェっぽくて逆におしゃれになった気もする。これはこれで悪くない。
「はい、どうぞ」
「わー、すごいっおいしそうっ! いただきますっ!」
 目をキラキラ光らせ両手を打ち合わせる彼女の笑顔は、想像していたよりも嬉しそうだった。それだけで心の底から満足してしまう。
「ん、おいしいっ」
「あ、ホントに?」
「うん、ホントホント。これなら充分お金取れるよ」
 仕事が終わった直後でお腹が空いていたのだろう、パクパクと食べていく彼女の様子は見ているほうが気持ちいいほどだ。化粧を落とした横顔も小さな口をムリに大きく開けて頬張る様子も、とてもじゃないけれど年上には見えない。
「そう? 今度、店で出してみようかな」
 言いながら自分用にと用意した皿に箸をつけた。前に作ったものよりも少し味が薄いような気がする。メニュとして考案するならカロリー控え目のマヨネーズタイプドレッシングを用意してもいいかもしれない。女性陣にはそっちのほうが受けるだろう。
「うん、いいと思うよ。わたしも頼んじゃう」
 嬉しいことを言ってくれる。
「そんなの頼まなくたって、美雪さんにはいつでも作ってあげるよ」
「うん、ありがとう」
 にっこり笑う無邪気な表情は、どう言えばいいのかわからないほどに可愛い。いつものことと言えばいつものことだけれど、胸の内側で不敬な炎が熾るのが自分でもわかる。
 食事の後で抱かせてくれるかな。そんなことを考えながら頭の中に浮かべたカレンダーの日付けを数えた。
 美雪さんとセックスしたのはもう四日も前だから大丈夫だろう。身体だけが目的だとは思われないだろう。溜まっているわけでも女に飢えているわけでもないけれど、でも、できれば。ついそう思ってしまうのは男の浅ましさだと自覚はしている。
「いつでも言ってよ。作りにくるから」
 穏やかに微笑み返しながらさりげなくジーンズのポケットの中を探り、指先に触れる感触を確かめる。いつも通り、三個。付けずに一度……と思わなくもないけれど、でも彼女に余計な心配は掛けたくない。いつか彼女とオフィシャルな関係になれればそれを彼女が望んでくれれば、そのときにはできることだ。順調に行っても何年か向こうの話だが、焦る必要はない。焦ってもどうにもならない。
「でもさぁ」
 いきなり変わった声音に顔を上げる。彼女のどこか含むところのありそうな視線が俺に向けられていた。
「前から思ってたんだけど、シズくんってホント料理上手よね」
 彼女のその口調は、褒めてくれている感じもするけれど、なぜかどことなく不服げだ。尖らせた唇もそれを表している。何か気に入らないことでもあるのだろうか。
「そうでもないと思うよ。いくつか作れるけど、でも簡単なものばっかだし……」
「でも、わたしより上手だよね?」
 俺の言葉を遮るように微妙な疑問を投げかけながら、彼女は上目遣いで俺をちろりと見上げた。
 いつも素直な彼女にしては奇妙なニュアンスに、思わず眉をひそめてしまう。そんな俺の顔を見て、彼女はわずかに唇を尖らせた。
「どうしたの、美雪さん」
「べっつにぃー」
 俺の視線から逃げるようにぷいと顔をそむける。それでも、忙しくもぐもぐと口元が動いている様子がなんとなくリスを連想させて、可愛い。
「なんか、あったの?」
 もしかしたら、何か仕事で気に入らないことがあって、それで機嫌が悪いのかもしれない。今までも何度かそんなことがあった。
 それは、新しく入ったキーボードが打ちにくいとかマウスの調子が悪いとか、同僚の仕事を手伝ったらそのまま押し付けられて仕方なく残業をしたとか、俺には些細な出来事のような気がすることもあるけれど、それでも繊細な女性はひどくイラつくらしい。どちらかと言えばおっとりした性格の彼女も、月に一度くらいはそういう日がある。いわゆるそういう時期のあいだ、のことだけれど。
 もしも今がそうだとしたら、できないな。
 内心でそんなことを考えながら箸を動かす。不機嫌そうながらもパクパクと食べ続ける横顔は、どんなに視線を送っても知らん顔だ。皿の中を見つめるように目を伏せたまま、こっちを見てもくれない。
 ――まいったな。

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