マスカレイド-1

 正直言うと、最初はそれほど興味なかった。
 確かにキレイな顔をしてるけど、でもそれが逆に作り物みたいで、男はもっとがっちりしてる方があたしは好みだなあなんて、教室の隅できゃーきゃー騒ぐコたちをぼんやり眺めてた。
 だって、もう結婚しちゃってる人だよ、そんなのダメに決まってんじゃない。もっと身近に目を向けたほうがいいんじゃないの。そんなふうに考えてた。
 それが一転したのは、校内マラソン大会のとき。
 いつも何を見ているのかわからないクールな視線を周囲に向けていたあの人が、懸命に走る最後尾のコたちに『頑張れ頑張れ』って叫びながら、手を叩いてるのを見たとき。そして、そのコたちがゴールしたとき、自分のことみたいに嬉しそうに笑ってるのを見たとき。
 なんだ、澄ました顔以外もできるんじゃん。
 今から考えると当たり前だと思うけど、でもそのときのあたしには衝撃だった。残念なことにその表情はそのときだけのもので、すぐにいつもの冷たい目に戻ってしまったけど、でもあたしの気持ちは戻らなかった。ただ、今までのことがあったから友だちにも打ち明けることができなくて、だから今までと同じ興味ない態度を貫いたけど。



 ――あの人。
 名前は佐上仁。年は二十八。物理担当。
 さらさらの前髪のあいだから見える、切れ長の目。少し物憂げな表情と落ち着いた声。すらりとしたスーツ姿は、小汚いジャージのオッサン先生たちとは全然違う。特進クラス副担で、学年一……ううん、多分、学校一の人気者。結婚しているにも関わらず、バレンタインにはデパートの紙袋いっぱいにチョコが集まるとかって聞いたこともある。
 その人気が悪いのか、それともちょっと気軽には近寄りがたい見た目と性格のせいか、先生同士でもあまり親しい付き合いとかはないと言う。趣味はなんたら方程式を解くこと。頭の悪いコには興味がなくて、特進クラス以外のコは無視するなんて噂もあるくらいの人。
 だから、どうあったところで一般文系クラスのあたしにはチャンスも接点もなかったし、それはわかっていた。だから、ただひっそりと憧れていただけ。それくらいなら別に……。
 うん、別に。





「あ、芝口。おまえ、まだ進路調査票出してないだろ。このまま残れ」
「えーっ」
 今日はチカちゃんたちとカラオケ行く約束だったのにー。
 ホームルームが終わった直後のざわついた教室の空中に不服の声を上げると、真っ黒の短い髪をガリガリと掻きながら、藤元先生は「何がえー、だ」と不機嫌に返してきた。
「調査票の提出期限はとっくに切れてるんだぞ。このまま夏休みに入るつもりか。とにかく、今日は絶対に残れ。いいな?」
 それでなくても太い眉をぎゅっとひそめて、先生はあたしを見た。
 普段はみんなの友だちみたいだけど、学生時分には陸上で国体だかインターハイだかへ行ったという迫力のあるガタイを誇る担任は、こう言うときにはささやかな抵抗さえ許してくれない。いかにも熱血系体育教師って見た目だけど実は化学の教師で、しかも結構頭がイイ。白衣よりジャージが似合う化学教師ってのも珍しい。あの太い指でよく試験管握り潰さないよなぁ、ちょっと全体的にゴツすぎるけど、でも割とイイなぁ、なんてあたしは思っていた。
 周囲でもそんな風に思ってるコは多いらしくて、佐上先生と一二を争う……ってほどじゃないけど、でも人気教師のベスト五には確実に入ってると思う。歳は二十九であたしたちと十以上も違うけど、実際より若く見えるのと話題が合って親しみやすいのと、あとまだ結婚してないってのも関係してるのかも。
「はーい、わかりましたー」
 渋々頷くと、背後からぽんと肩を叩かれた。
「あ、残念ー。じゃあ、私たちだけで楽しんでくるね」
「仕方ないね、ビッグの割引って今日までだもんね」
「藤元ちゃんと一対一なんて羨ましー」
「だったら代わってよっ」
 思わず叫んだあたしにチカちゃんはぶーっと唇を尖らせ、そして笑った。
「それはムリー。進路相談がんばってね、春奈」
「ばいばーい」
 楽しそうに笑いながら、心優しい級友たちはあっさりあたしを見捨てて行く。ボーゼンと見送るあたしの肩を藤元先生がぽんと叩いた。
「諦めろ、おまえが悪い」
 ええいっ、馴れ馴れしいっ!



「さーてと。じゃ、始めるか」
 あたしたちの教室は、放課後は去年発足した将棋同好会の部室として使われていた。クラスメイトがいる中で進路相談ってのはさすがにちょっとってことで、理科準備室に移動した。
 一辺だけが長いH型をした校舎のその突き出した部分の三階の角に、実験室と並んでその部屋はあった。実験室もそうだけど、危ない薬品なんかも置いてあるから理科の教師だけがカギを持っているという、ちょっと特別な部屋。担任が化学担当だから、今まで何回か入ったことはあった。
 戸棚の中には新品の試験管やフラスコ、そしてずらりと並んだ大小さまざまなサイズの薬瓶。中には何に使うのかもわからないようなのもあって、勿論カギが掛かってるから取り出したりはできないんだけど、見ているだけでも楽しい。
「芝口、コーヒー淹れてくれ」
 教室にいるときよりさらにくつろいだ様子で長テーブルに並んだパイプ椅子に座ると、先生はあたしにカギの束を渡した。丸いわっかには大小のカギが五つ。
「その一番小さいヤツな」
 先生は背に全体重を掛けるようにもたれながらカギを指差した。その視線を辿ってみると、戸棚の片隅にアルコールランプや変わった形のフラスコと並んで、インスタントコーヒーの瓶と耐熱グラスのマグカップが五つ。
「え、開けていいの?」
「おー。俺と一緒のときだけな」
 返ってきた言葉にちょっとウキウキしながら戸棚を開けて、安っぽいプラスティックのお盆に乗ったコーヒーセットを取り出した。部屋の隅の小さな手洗い場(本当は試験管を洗ったりするところだけど)で水を入れてきたフラスコを、マッチで火を点けたアルコールランプの上に乗せる。しばらく待っているとしゅわしゅわと下のほうから小さな泡が湧き出して、そしてそれが徐々に大きくなって行った。
「もういい?」
「ああ」
 あくびしながら先生が頷いた。アルコールランプの火を消して大きな鍋つかみでフラスコを持って、インスタントコーヒーを入れたマグカップにお湯を注ぐ。特別なことをしているわけでもないけど、道具が変わると実験みたいでおもしろい。
「お砂糖は?」
「いや、俺はいい」
 ブラックのまま口に運ぶ様子を横目で見ながら、自分のにだけお砂糖とパウダーミルクを二杯ずつ入れていると、先生はぷっと笑った。
「何よー」
「いやいやいや。芝口も女の子だなあって思って」
「あったりまえでしょっ」
 あたしは産まれてきたときから女なのに何を今さらと噛み付いていると、背後でがらりとドアの開く音がした。
「楽しそうだな。俺にもコーヒー」
「お、仁。お疲れー」
 低く聞こえてきた声に硬直するあたしの前で親しげに藤元先生が手を振る。おそるおそる振り返った先には、ファイルを小脇に抱えた佐上先生が立っていた。
 えっ、この二人って、名前で呼ぶくらい仲いいの? 友だちなの? っていうか、なんで佐上先生がここに……?
 一人で慌てるあたしを見もせずに、佐上先生は後ろ手にドアを閉めてファイルを長テーブルに置いた。
「暑いな」
「ああ、今日はまだましだけどな」
「そうか、そうだな」
 藤元先生に向かって頷きながら、佐上先生はネクタイを緩めてシャツの一番上のボタンを外した。伸ばした人差し指がすじの浮き出た手の甲が、袖を折り返したシャツの隙間から見える腕のラインが、とてもキレイで。
「お、なんだなんだ、芝口。見とれてんのか?」
「ち、違うよっ」
 隣から向けられたからかうような声に急いでぷるぷると首を振ったけれど、慌てて返事をしたのがかえっていけなかったらしい。教師とも思えない意地悪なニヤニヤ笑いが覗き込んできた。
「おいおい、顔が赤いぞ。おまえもサガミセンセイ派かぁ?」
「違うって言ってんでしょっ!」
 横目で藤元先生を睨みつけながら空っぽになったフラスコを持った。佐上先生のコーヒーを淹れるためにお水を汲んでこようと思っただけなんだけど。
「あちっ……って、ああっ!」
 ぴりっと刺すような熱に、条件反射的に手から離してしまったフラスコが吸い込まれるように落ちて、床でパリンと硬い音を立てる。ほんの一瞬で、やわらかい丸みを帯びたフラスコにぴしりとヒビが入り、平べったい底全体がすぽんと抜けたように大きな穴が開いた。
「ごめんなさいっ」
 叫ぶように謝って、あたしは慌ててしゃがみ込んだ。割れたフラスコを拾い上げようとしたとき、別の方向から伸びてきた大きな手のひらに行き先を遮られる。
「え……?」
 顔を上げると、床に片ひざをついた佐上先生が、包み込むようにぎゅっとあたしの手を握っていた。額に落ちた前髪のあいだから涼しげな目が覗いている。その目があたしを見ている。思いがけないと言う表現を越えた状況にそれ以上声を出すこともできない。硬直するあたしを見て、先生は唇を緩めるようにふっと笑った。
「危ないから素手で拾わないほうがいい。武志、ちり取り」
「へいへい」
 半分命令みたいな佐上先生の言葉に溜息混じりに頷くと、藤元先生は『よっこらしょ』とかジジくさいことを言いながら、パイプ椅子から腰を上げた。佐上先生に手を捉まれたまま動けないあたしにちらりと視線を向けてから、部屋の隅に置かれた金属製のゴミ箱と、壁のあいだに挟まれるように置かれていたほうきとちり取りと金バサミを順に手に取った。
「ほら、どいたどいた」
 ふるふると手の甲を振って、藤元先生が床にしゃがんだままのあたしたちを追い払った。そんな藤元先生の仕草に佐上先生がくすっと笑って立ち上がり、手を取られたままのあたしが引っ張られる。あたしが立ち上がると同時にその手はふわりと離れたけど、バクバクと口から飛び出そうな勢いで心臓が動くのは止まらない。無意識のうちに右手を左手で握りしめて、両手で強く胸を押さえた。
 右手の甲を指先でなぞると、あたしよりもちょっとだけ体温の低い先生の手の跡を辿ってしまうみたいな気がする。そんなことを考えると、ぼわっと膨れ上がるように頬が熱くなるのがわかる。
「まったく、なんだって俺がこんなことをせにゃならんのだ」
 ブツブツ言いながら、藤元先生が慣れた手つきでフラスコの残骸を片付けていく。
 まだ無事なフラスコの口の部分を金バサミでぱくっと挟んでゴミ箱に入れる。次に比較的大きな破片を順に丁寧に拾い上げる。つかめるサイズのものがなくなると、素早く細かくほうきを動かして粉々になった欠片を刷き集めた。戸棚の中から紙タオルの箱を取り出して一枚を抜き出し、ほんの少しの水に濡らして丁寧に床を拭く。あっという間に何事もなかったように床は元通りキレイになった。
「ついでだ。これ、捨ててくるわ」
 手伝いもせずじっと立ち尽くしているあたしたちをじろりと見てから、藤元先生はゴミ箱を持って立ち上がった。
「仁、そっち片付けといて」
「ああ」
 無表情で頷くと、佐上先生は部屋を出て行く藤元先生を見送ってからほうきやちり取りをまとめて持ち、元に置かれていた位置へ運んだ。片付け終えるとくるりと振り返ってあたしを見て、そして先生は眉をひそめた。
「芝口、ケガしたのか?」
「え、あ。え……?」
「指か?」
 佐上先生の言葉の意味がわからなかった。でも、答える暇も問い返す余裕もなかった。すたすたと近づいてきた先生が、胸元で握りしめたままだったあたしの手を取って、ぎゅっと自分のほうに引き寄せて、そして。
「せ……せん、せ……」
 濡れたやわらかい感触が人差し指にぬるりと触れる。次いで硬いものが当たる。ちゅっと強く吸い上げられる感覚。
 先生があたしの指を……舐めてる。
 目の前の状況を理解した瞬間、どくんと世界がずれたような気が……した。

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