マスカレイド 第二部
あいするいみは-1

「あれ? もしかして、雨?」
 急に部屋全体が暗くなってきたのを感じて書きかけの数学ドリルから顔を上げた。慌てて窓際に駆け寄ると、レースカーテン越しの空に斜めの薄い線が入っていた。ぽつぽつと窓ガラスについた雨粒に思わず溜息をつく。
「せっかく洗濯してきたのにー」
 頑張った朝の一時間が全部台無しになったようで、一気にやる気がなくなる。唇を尖らせながら長テーブルに戻って、ドリルの上にぽいと握っていたシャーペンを放り出す。ぱちりという小さな音と一緒に、二ミリほど出ていた芯がどこかへ飛んでいった。それを横目に乱暴にパイプ椅子に座って背もたれに抱き付く。わずかなひんやり感が二の腕に気持ちいい。固い感触にぎゅっと腕を回して額を押し付けた。
「つっまんない、のー」
 朝からずーっと一人で、苦手な数学のドリルに掛かりっきり。夏休み中の高校三年生としては褒められてもいいくらいの姿だと思うけど。
「でも、つまんないんだもん」
 ぷーっと頬を膨らませるのは予行演習。拗ねる用意。時計の針はもうとっくに真ん中になっていて、だからもうすぐ。
 そう思った瞬間に、ガチャガチャとカギを外す音が聞こえた。ぱたぱたと間抜けな音を立てるスリッパと、人の気配。
「あー、腹減ったーっ」
 それでも思わず振り仰ぎそうになるのを我慢していると、がさりとコンビニのポリ袋がテーブルに置かれた。今日は何を買ってきてくれたのかな。そう思うと正直な胃袋が反応する。ぐうっと鳴ってしまう。
「ほら、芝口。腹減ったんだろ」
 やっぱり聞こえちゃったのかな。声がちょっと笑ってる。
「い、ひゃぁーん」
 薄目を開けてそっと背後を振り返ろうとしたとき、ブラウス越しにすうーっと背中を撫でられた。思わず変な声が出てしまう。
「なにすんのよっ! って、きゃあっ!」
 勢いよく振り返ったはいいけれど、パイプ椅子の上でバランスを崩してしまう。伸びてきた太い腕に慌ててかじりついて、息を止めて三秒。なんとか倒れるのだけは防ぐと、ほーっと低い溜息が上から聞こえてきた。
「まったく、おまえは」
 ぽんぽんと軽く叩くように頭を撫でた大きな手が、おかしそうに笑いながらあごをつまんだ。猫を相手に遊ぶときのようにのどを指先でくすぐってくる。
「何よおっ」
 それでも横目で睨みつけると、藤元先生はくっと低く笑った。がう、と指に噛み付くふりをするあたしに肩を揺らせて笑いながら、先生は手を引っ込めた。そのままテーブル上の見慣れたロゴのついたコンビニの袋を引きずるように引き寄せる。無造作な手つきで取り出されるサンドウィッチとおにぎりは、どう見ても昨日より数が増えてる。
「これ、好きだったよな?」
「あ、うん。……ねえ、佐上先生は?」
 差し出されたハムとたっぷり野菜のサンドウィッチとレモン味のソーダを受け取りながら訊くと、藤元先生の動きがぴたりと停まった。
「ガッコにはきてるんだよね?」
 希望者だけが受ける特別授業のために、夏休み中でも教師の半分くらいは毎日学校にきてる。藤元先生もその一員。Tシャツに短パン、素足にサンダルなんてカジュアルすぎる格好だけど、一応は理科の教師だから。
 本気の受験生は夏休みは予備校の夏期講習に行くから、本来はそれほどの人数は参加しないらしい。受験に直面していない二年生か、赤点が怖いあまり出来の良くない生徒が担任に脅されてイヤイヤ出てくる。今まではそんな形だったらしいのだけど、今年は普段は特進クラスしか教えていない佐上先生が数Uを担当する日があるとかで、クラス中が大騒ぎだった。
 数Vだと、文系のあたしたちにとっては完全に意味不明の数式しか並ばないけど、数Uならまだ付いていけなくもないから、これ以上はないチャンスってこと。でもまぁ、相手はあの佐上先生だから、そう簡単に近づけないだろうなーとは思うけど。
「ねえ、センセ?」
 どこか一点を見つめたままあたしを見ない視線の先に回り込むようにしてじっと見上げると、渋々といった表情で先生は溜息をついた。
「さっき奥さんから電話があって、出て行った」
 そこでなんで、目をそらすかな。
「あー。そうなんだ」
「ああ」
 暗くなりかけた雰囲気を吹き飛ばそうと、わざと軽く言うと、先生は黙ったまま小さく頷いた。俯いたままポリ袋の中から残りを全部引っ張り出してくる。テーブルの上に、シュウマイ特盛り弁当と大盛りマカロニサラダと、焼きそばパンとカツサンドとたまごサンドとおにぎり二つと、ハーフサイズのパック牛乳とペットボトルのお茶を並べていく。いつものことながら旺盛な食欲に笑ってしまう。確か、昨日は焼肉弁当だった。
「なんだ?」
「んーん。別にー」
 曖昧な表情の疑問に首を振って、椅子に座り直した。先生がくれたサンドウィッチのラップを開けて中身を取り出す。
「いっただきまーっす」
 両手で持ったサンドウィッチに軽く頭を下げてからぱくりと噛み付く。やわらかなパンのあいだの、パリパリのレタス。
「いただきます」
 先生は、見た目のイメージからよりは丁寧に手を合わせて頭を下げると、シュウマイ弁当とマカロニサラダのパッケージを開けた。ぱちりと割った箸を右手に持ってから、サラダの蓋と、サラダについていた細いプラスティックのフォークを重ねて、黙ってあたしに差し出してくる。これはあたし用の取り皿。食べたいものがあればなんでも好きに手を出していい、と言う意味らしい。
「ありがとっ」
 取り皿セットを受け取ってすぐ、先生が伸ばしたお箸の先をかすめるようにシュウマイを一個横取りする。自分の箸先のシュウマイにぷすっと突き刺さったフォークに、先生がぷっと笑った。
「おまえは子どもか」
「高校生だもん、まだ子どもだもんっ」
「あーあー、そうかよっ」
 言いながら先生は手を伸ばしてきて、あたしの手元のサンドウィッチの片方をすい、と取った。勝ち誇ったような目であたしを見て、にいっと笑う。
「じゃあ、こっちもいただきな」
「あー、半分も取ったーっ!」
 五個のうちの一つと二個のうちの一つは同じ価値じゃないと訴えると、先生は笑いながら鶏のから揚げとウィンナーと、そしてシュウマイをもう一つ、あたしの取り皿であるサラダの蓋に置いた。大きな手が無造作な手つきでツナマヨのおにぎりをつかんで、その横に並べてくれる。
「はいはい。これでいいだろ、春奈チャン」
 からかうような口調でそう言いながらあたしの頭をぽんぽんと撫でて、そしてようやく先生は自分のシュウマイを箸に取った。ちょっと大き目のそれを一口でぱくりと食べて、続いてその倍ほどの分量のご飯を押し込むように口に入れる。豪快に動くあごになんとなく納得しながら、あたしはフォークの先に突き刺さったシュウマイを半分かじる。
「ん、おいしい」
「そっかそっか」
 どんどん食えよ、なんて言いながら、藤元先生はラップを剥がしたカツサンドをあたしのほうに押し出してくる。お腹が空いていることもあって、反射的にありがとーって手を出してしまう。こんなにばくばく食べてたら太っちゃうかもなんて危機感を抱く瞬間も一応はあるのだけれど、でも横で気持ちいいくらいもしゃもしゃ食べていく先生を見ていると、負けるもんか、なんて思っちゃう。
「んん?」
 あたしの視線に気付いたのか、先生はお箸を軽く上げた。普段よりちょっと膨らんだ頬のまま、マヨネーズがかかったブロッコリーを微妙に揺らして見せてくれる。食べるかって訊いてくれてるんだと思う。別にいいよって意味で首を小さく横に振ってから手元のカツサンドにかぶり付くと、先生はちょっと目を細めるみたいに笑って、そのブロッコリーも一口でぱくりと食べた。
 藤元先生はこんなふうに分け合って食べるのが好きらしい。自分のと人のを確実に区別して絶対に手を出さない佐上先生とは正反対。どうしてこの二人が友だちなのかなぁ。
「ああ、そう言えば」
「んうっ?」
 いっぱいに頬張ったカツサンドのせいでちゃんとした返事ができない。口の端からはみ出ていたパンを押し込んで、まだ半分ほども固形を保ったカツをむりやりソーダで流し込んだ。一度に飲み込んでいい許容量を大幅に越えた食道がおかしな痛みを訴える。キシキシと、どこかが引っかかれているのがわかる。
「そんな慌てなくても」
 けほけほとむせるあたしに先生が笑う。
「なぁによおっ」
 ポケットから取り出したハンドタオルで口元を押さえながら横目で睨みつけると、先生は「はいはい」と軽く肩をすくめた。
「そう言えば、おまえ、昨日はどうしてこなかったんだ?」
 その軽い口調に軽い言葉に、一瞬胸が詰まって声が出なかった。
 口の中に残ったものを飲み込むふりで、さりげなく顔を伏せて先生から眼をそらして、深呼吸を二回。なんでもない顔でゆっくりと目を上げる。
「なんで? 誰かが言ってた?」
「いや、別にそう言うんじゃねーけど?」
 もしかして佐上先生があたしのこと気にしてくれてたのかなって儚い期待も、藤元先生はあっさり否定してくれる。藤元先生はそういう人だし、佐上先生だってそういう人だってわかってるから、だからここでがっかりしちゃいけないって、そう思うのは思うんだけど。
「……なーんだ」
「ん?」
 思わず呟いたあたしに、口をもぐもぐさせながら藤元先生が下あごを突き出した。目だけで続きをうながす先生になんでもないって首を振ってから、のどの奥からこみ上げてきていた溜息を、カツサンドの残りに噛み付いて口の中で揉み消す。
「で。なんでこなかったんだ?」
 しつっこいな。 
「別にあたし、毎日ガッコくるって決めてるわけじゃないよー?」
 あたしは補講もないし、それに夏休み中だしー。
 わざとぶっきらぼうに答えると、先生は軽く頷きながらでも唇を尖らせて「ふーん」と唸るように言った。確かに何も約束してなかったけど、それでも夏休みに入ってからの二週間近くは雨の日も風の日も、日曜以外は毎日毎日ガッコに来てたんだから、先生が不思議に思ってもムリないかも。
「ま、そりゃそーなんだけどな」
「だから、なんでもないってば! なんの理由もないってば!」
 言いにくそうな先生の語尾をひったくってしまってから、思わず口を押さえた。
 担任だから、というのとは別に、あたしのことをよく知ってる藤元先生相手にこんな言い方したら、ホントは別の理由がありますって白状してるのと同じじゃん……って、気付くの遅いよあたしーっ!
「あ、や、その……」
 どう取り繕おうかと考える暇もなく、あたしを見る先生の表情が変わった。訝しげだったけれど明るかった笑顔がすうっと消えて、見慣れていた親しみやすい近所のお兄ちゃんみたいな雰囲気が一変する。

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