マスカレイド 第二部
あいするいみは-3

「で?」
 使い終わったティッシュを空になったコンビニのナイロン袋に入れると、だるそうにパイプ椅子に全体重を掛けてもたれながら、藤元先生は短パンのポケットからタバコを取り出した。咥えたタバコに火を点けてそれを深く吸い込んで二秒、唇の隙間から大量の煙をゆっくりと吹き上げる。
「あ、タバコー! いけないんだぞーっ」
 教師が対象の、学校内全面禁煙という規則は、確か入学したときにはなかったと思うけど、ふと気付けばいつのまにかそういうことになっていた。だからタバコを吸う先生たちはよく校庭の隅で車座になっている。雨の日に傘を差してまで吸っているのを見ると笑ってしまう。
 あたしには関係ないから別にどうだっていいけど、でもタバコが好きな人には最近はなかなか難しいらしい。パパもときどきそんなことを言っている。それでもやっぱり身体にいいものじゃないし、キツいにおいは服にも髪にも残るし、本当はやめてくれればいいなあって、そう思ってないこともないんだけど。
「なーにを今さら。こんなもんより、この状況のほうがよっぽどマズい」
 あたしの人差し指を鼻で笑いながら、先生はタバコをはさんだ指を軽く振った。灰の伸びてきたタバコの先を、ミントケースみたいなアルミの平べったい携帯灰皿にトンと叩きつける。
「いかにもヤったあとですって感じだよな」
 あたしの全身を眺めるみたいにゆっくり視線を上下させて、藤元先生はのどの奥で低く笑う。ちょっとやらしい目は、先生がまだ『先生』に戻ってない証拠。それが嫌なわけじゃないけど、でもあたしは外れたままだったブラのホックを急いで留めてブラウスで隠した。
 別に慌てなくても、標準よりもつつましいサイズのあたしの胸は、ブラカップの中にきちんと全部収まってるんだけどさ。
「これがバレたら、俺はクビ。おまえは退学……いや、停学くらいで済むかな? 俺たちを悪人に仕立て上げれば無罪放免って可能性もあるか」
「そんなことしないよっ!」
 あまりの言い草に思わず唇を尖らせたけど、先生は楽しそうにケラケラ笑うだけ。
「まあどっちにしても、一度そんな噂が廻っちまえば、俺もおまえもガッコには残れないぜ。そこまで面の皮は厚くないだろ」
 そう言いながらも楽しそうな横顔は、そんなこと全然気にしてないとしか見えないんだけど。
「ねぇ、もしも、よ。もしもそんなことになったら、センセはどうするの?」
「んー?」
 おそるおそるのあたしの言葉に先生は気楽な目のまま天井に煙を吹き上げた。
「なっちまったら? そうだな、教師辞めるかな」
「センセ、先生辞めちゃうの?」
「まぁそうなったら、それはそれで……」
 軽い口調で言いながら首を巡らせるようにあたしを見て、でも先生はふいにその動きを止めた。半分開いたままの口から出てくるのは、言葉じゃなくてひとすじの白い煙だけ。何を言うつもりなのかなってじっと見返すと、先生はタバコの灰を落とすふりをして、あたしから視線をそらした。
「だから、だな。そういうことにならないように、みんながそれぞれ気をつけよう、と、今日改めて思ったわけだ」
「ふうーーーん」
 空いた右手で握りこぶしを作って、それを強く振りながらなぜか宣言するような口調で言う先生に、わざとらしくあごを上げて下まつげ越しに白い目を向ける。どこまでふざけててどこまで本気なのかわからない顔の先生に思わず深い溜息が出た。
「まぁ、そういうもんよね、確かに」
 もしかしたらここは怒ってもいいところなのかもしれないけど、でも一対一でお付き合いしてるのならともかく、あたしと藤元先生はそういう関係じゃないから。あたしと佐上先生は、もっとそういう関係じゃないけど。
「いいけどさ、別に」
 責任取って欲しいなんて、考えてないし。
 けど、この場合の責任ってどうなんだろう? できちゃった結婚とかって言葉もあるけど、でもそういうのは佐上先生も藤元先生もすごく気をつけてるからありえないし。えっちしただけでどうのこうのなんて、イマドキじゃないよね。
 やっぱ、あたしが捨てられちゃうってだけかな。バレたらそうやって終わっちゃうのかな。訊きたいけど訊けない。藤元先生にも訊けないんだから、佐上先生に訊くなんてできっこない。
 思わず出た溜息を隠すように俯いて、ブラウスの裾を直す。スカートのホックもきちんと留める。だらしなく横を向いて床に転がっていた上履きのバレエシューズをお行儀悪くつま先で起こして、そのまま引っ掛けた。
「ほれ、リボン。忘れるなよ」
「はーい」
 ぽおんと放射線状の半円を描いて跳んできたリボンを両手で受け取って、衿にぱちりとはめる。
「まあ、この時期は安全なんだけどな」
 短くなったタバコを手の中の携帯灰皿に差し込むと、先生は最後の煙を溜息みたいにふうっと吹き上げた。そのまま蓋をスライドさせてカチンとストッパーを止めて、それを短パンのポケットに入れた。
「こっちで補習はねーからな」
 明るい調子で頷きながら先生は軽く腰を上げた。手を伸ばして長テーブルの上に投げ出されたままだったお箸を取る。
「すっかり冷めちまったなー」
 ブツブツと、それでもあんまり気にしてないみたいな口調で、プラスティック容器に入ったお弁当を引き寄せる。
「そだね」
 パクパクと食べ出した横顔に頷き返しながら、あたしはスカートをパタパタ叩いて立ち上がった。
 夏休み中はいくら補講があっても実験はないから、特別教室しかないこの棟には人は滅多にこない。
 うちのガッコはもともと女子高だったから、今でも男子は全体の四分の一くらいしかいない。そのせいもあって化学部とかなくて、だから普段でも放課後はこの辺りは、静か過ぎるくらい静か。呆れるくらい誰もこない。あたしも知らなかったけど、佐上先生が準備室に出入りしてるってことを誰も知らないのかも。
 それでも先生たちは気を付けてるみたい。人目のあるところでは絶対に話し掛けてこないとか、誰かに見られてもわからないようにあたしのケータイ番号は別の名前で登録してるとか、えっちするときは時間も細かく指定してくるとか。本当はしちゃいけないことだと思うけど、準備室のカギをこっそり付け替えたりしてるし。あたしは退学にも停学にもなりたくないし、親にだってばれたくないけど、それは先生たちも同じだと思う。
 そりゃそうだよね。
 ふうっと溜息をつきながらあたしは先生の隣に座った。藤元先生の豪快な食べ方に対抗するみたいに、表面がちょっと乾いてパサパサになっちゃったカツサンドに大口開けてかじりついて、意外なほど自己主張する薄いきゅうりをパリパリと噛み砕いた。
 でも、もしもバレてあたしが退学になったとしても、そりゃ勿論いろいろと大変だけど、それでも転校するとか私学へ編入するとか、そういう逃げ道がある。でも先生たちはそんなに簡単な話じゃないと思う。
 独身の藤元先生はともかく、佐上先生には奥さんがいるからそっちでも揉めちゃうだろうし。場合によっては即離婚って可能性もあるし、そうならなかったとしても家庭がゴタゴタしたらイヤだって、みんなが傷つくんだって、あたしはよく知ってるはずなのに。
 ふとそう考えた瞬間に現実を思い出して、溜息をついてしまう。
 でもあたしの立場でこんなふうに考えるのって偽善よね。奥さんに申し訳ないなんて考えるのなら、最初からしなきゃよかった……のに。そう思った瞬間、またもや溜息が出てしまった。
 それでも、好きだったんだもん。好きになっちゃったんだもん。ずっとずっと夢見てた。憧れてた。だから佐上先生とえっちしちゃったこともこんな関係になってしまったことも後悔はしてないけど、でも……。
「……な、――だろ?」
「え?」
 考えごとをしながら食べていたら、いつのまにかあたしは黙って俯いてしまっていた。そのあいだもどうやら先生に話し掛けられていたらしい。声に引っ張られるように顔を上げると、箸先に刺さったウィンナーを大きく振っていた先生が、同意を求めるような顔であたしを見た。
「え、思わねーの?」
 悪戯っぽい目で見られて慌ててしまう。
「え、えーと、ごめん。聞いてなかった。なぁに?」
 道端でばったり会ったおっきな犬相手に後ずさりするような気分で、それでもムリに笑顔を浮かべた。軽く首を傾げて見せると、先生は眉根を寄せるように顔をしかめた。
「あ、いや……いい。大した話じゃねーし」
 ちょっと困ったような顔で言葉を濁して一瞬だけ視線を外して、そして先生はウィンナーをぱくりと一口で食べた。もしゃもしゃとあごは動いてはいたけどでも味わってるって顔でもなくて、ちょっと落ちつかなげな目が空中をあっちこっちとうろついている。
 居心地の悪そうな先生の表情に、こっちまでお尻の辺りがむずむずしてくる。ちゃんと聞いてればよかった、マズいことしたかもって思うけど、でももういいって言われちゃったら改めて聞き返すのもなんかちょっとあれだし。困ったな、なんかないかなー。
 そんな気分で周囲をきょろきょろ見回してみても、ここ一箇月ですっかり見慣れてしまった準備室には、特に話題になりそうなものも転がってない。
 それでもしばらくぐるぐると周囲の状況を探して、でもやっぱり何もない部屋の中から話の種を拾い上げるのをあきらめる。目を伏せたまま顔だけを上げて、間を置くためにレモンソーダのペットを手元に引き寄せて一口飲んでみた。ふたを外したまましばらく放置されていたソーダは思ったほどしゅわしゅわしないけど、この際気にしない。さっきからずっとあたしに向けられていた、先生の何か言いたげな視線にわざと気付かないふりで休憩しながら一口ずつ飲む。半分くらいに軽くなったペットボトルをこつんと音を立ててテーブルに戻すと、その瞬間を見計らっていたように先生はお箸を持っていた右手をテーブルに置いた。
「なぁ、春奈」
「んー?」
 呼ばれた声に応えるように、首をかしげて顔を上げて、先生に視線を流す。あたしと目が合うと、もぐもぐと口を動かしていた先生はごくっとのどを鳴らして口の中に残っていた食べ物を飲み込んで、そして真正面からこっちを見た。
「さっきの、話だけどな。おまえ、なんで昨日こなかったんだ?」
「えっ……」
 ごまかしきったと安心していた話題をまた振られて、あたしは固まってしまった。どう答えていいかわからなくて、でも聞こえなかったふりもできなくて。テーブルに戻す前に止まった手が中途半端に空中で止まってしまう。硬直したままのあたしにちょっと眉をひそめると先生はむーと口の中でうなった。
「さっき変な感じに話途切れちまったけどよ、なんか気になんだよなー。特に理由がねーってんならそれはそれでいいよ。つまんない理由でもいいよ。とりあえず、言えよ」
「え、えーっと……」
 普段の三割増くらいで砕けた、完全に友達相手みたいな口調にも反応することができない。徐々に距離を詰められると後ずさるみたいな感じに逃げられるけど、真正面から一気に懐に入られると、立ち止まっておろおろするだけ。言葉に詰まってうろたえるあたしに、先生は唇を尖らせてふうっと大きな溜息をついた。
「どうしても言いたくねーってんなら、それはそれでいいんだけどさ。やっぱ気になるわけよ、俺としては」
「え、あ、えー……」
 そのあまりにも真面目な言葉に応えることができなくて、でも無視することもできなくて。その真摯な瞳からちょっとでも逃げようと、あたしはムダにパチパチとまばたきを繰り返した。
「まあ俺は、こうやっておまえを好き勝手にしてるような教師だし。信用されてなくても仕方ねーとは思うし、そのことでおまえを責めるつもりもねーんだけどさ」
「え、あ、別に、そういうんじゃない、んだけど……」
 今まで聞いたこともないような、先生の拗ねた声と目に慌ててしまう。
 どうしよう。言っていいのかな。言ったほうがいいのかな。それとも、言わないほうがいいのかな。だって、やっぱアレだし。全然楽しい話じゃないし。聞いたら先生だって困るんじゃないの。そんな自分の声が頭の中をグルグル廻る。
 ちろっと目だけを向けると、口を尖らせた横顔が気難しそうに黙り込んでいた。それでもその口がもぐもぐと動いているのが、藤元先生らしいっちゃらしいんだけど。この人ってどこまでも体育会系だなーって思う。
「俺のこと、やっぱ信用できねぇ?」
 そんな目で見られたって、どう返事していいかわかんないよ。
「えーっと……」
 どうしよう、言っちゃう? 誰かに話しちゃいたいって思ってはいるけど、でも友だちとかにこういう話題振る雰囲気って難しいし。だからってこのまま一人でただ解決を待つのはあたしだってつらいし。いっそセンセ巻き込んじゃう? センセに話したからって別に何がよくなるわけでもないけど、そんなこと期待してるわけじゃないけど、でも藤元センセなら一緒に悩んでくれそう。
 うん、そうしよう。だって、言え言えって言ってるのは先生なんだから、あたしがムリヤリ聞かせてるんじゃないんだから。そう理由をつけて、あたしはごくりとつばを飲んでから顔を上げた。
「えーと、センセ。あの、ね」
「んー?」
 むすっと拗ねた顔のまま上目遣いでちろりとあたしを見て、でも先生はちょっとだけ表情を緩めた。
「なんだ?」
 ぶっきらぼうな声にはまだ不機嫌が微妙に残ってたけど、どうやらあたしが言うつもりになったのに気付いたみたいだった。頬が少しだけゆるんで、口元が笑顔のかたちを作ってくれる。
「う、うん。あの、さっきのことなんだけど――」
「あ、ちょっとたんま」
 せっかく言おうと決意したとこなのに、先生は手のひらを見せるみたいにお箸をつかんだままの右手を挙げて、あたしの言葉を遮った。

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