マスカレイド 第二部
あいするいみは-4

 何事かと思う暇もなく、先生はお箸をぽいと投げ出すようにお弁当の上に置いて、短パンのポケットからケータイ電話を引っ張り出した。最近よく見かけるようになった、スライド式の大きなディスプレイのケータイのボタンを素早く押して、腕をねじるようにして左側の耳に当てた。
「もしもし。ああ、俺」
 言いながら先生はあたしに一瞬だけ視線を流して、パイプ椅子の上で脚を組んだ。そのついでのようにこっちに背を向けるような体勢になって、肩を丸めるようにテーブルの上にひじをついて、小声でぼそぼそと話し始める。
「どうした? ん、いや。――そう。おまえは?」
 途切れ途切れに聞こえてくる言葉使いからどうやら相手は友だちみたいだけど、でももしも相手がガッコの先生とかだったら、あたしと一緒にいるって知られたらマズイかな。なんで一緒にいるのかって勘ぐられて、なんかバレたら困るし。だからセンセは背を向けたのかな。万が一にもあたしの声が入ったりしないように。
「いーんじゃねーの、別に。それは」
 そんなことをぼんやりと考えながら、空っぽになったソーダのペットボトルをきゅっと蓋をした。身を乗り出すように手を伸ばして、先生の飲みかけの緑茶のボトルを横取りする。ちょっと投げやり気味に響く声をBGMにそっとお茶に口をつけたところで、ゴンとひじの下が揺れた。
「おまえなぁ、あんまいい加減なことすんなよ。何がしたいんだよっ」
 いきなりの大声にびっくりして振り返ると、先生が左手のこぶしでゴツゴツとテーブルを叩きながらケータイに向かって怒っていた。完全に背中を向けているから顔は全然見えないけど、乱暴な仕草で脚を組み替えながら大きな背中を揺らす様子は、明らかにいらいらオーラが出てる。今まで何回かは見たことのある、担任としての先生の怒った顔を想像してちょっとドキドキする。
 相手は誰なのかな。友だち相手で怒るときも、担任の教師として怒るときとあんまり変わらないのかな? その違いを探してみたいような気もするけど、覗き込むのはちょっと怖い、かも。
「今日だってそうだろ。そりゃおまえにはおまえの事情があるし、その辺は俺だって――ああ、そうさ。だから言ってんじゃねーか!」
 限りなく本気の怒鳴り声にその背中をこわごわ見上げてみるけれど、先生はあたしの存在なんてすっかり忘れているみたいで、振り返る気配もない。
「ああっ? そんなおまえに都合よく周りが動くと……あ?」
 疑問符っぽい声を出しながら先生は唐突にこっちを振り返った。あたしを見たまなざしの鋭さに身体が硬直する。突き刺さってくるようなその視線は、えっちのときにさえ感じたことのない拘束力だった。眼をそらすどころかまばたきもできないあたしに、先生が唇の端を歪めて憎々しげに舌打ちする。そんな藤元先生の表情に反射的に、あたしのそこがぴくんと反応した。
 前からちょっとそんな気はしてたけど、睨まれてドキドキするなんて嫌そうな顔見て息ができなくなるなんて、あたしって変態なのかも。
「――わかった。ちょっと待て」
 そう言うと耳から離したケータイに目を落としてもう一度舌打ちして、そして先生は右手をあたしに差し出してきた。
 え?
 声にならない問いかけに、先生は握ったままのケータイを突きつけながら眉をひそめるようにしてあたしを見た。
「おまえに代われって」
 誰?
「仁」
 吐き捨てる声にその音の響きに、その音が差す人の名に、息が止まった。口をパクパクしてみても声が出ない。そんなあたしの反応にイラっとしたように頬をゆがめると、藤元先生はあたしの胸にぎゅっとケータイを押し付けた。ちょっと痛みを感じるくらいの固い感触を受け取っておそるおそる耳に当てる。不機嫌そうな表情を変えないまま先生はあたしに背を向けた。
「え、と。もしもし……?」
「芝口か。今から出てこれるか」
 聞こえてきたのは、険悪な雰囲気の藤元先生と話をしていたとはとても思えないくらいに爽やかで明るい声だった。軽い笑みを含んだ少し低めの声は、本当は結構イジワルなのがわかっているあたしでも一瞬でだまされてしまうほど優しい。遠くから見てるだけでうっとりするくらいにキレイな目をキレイな横顔をキレイな頬のラインを、一瞬で思い浮かべてしまう。
 誰にもナイショの関係を持つようになってからも、声だけでドキドキする。想像していたような優しい人じゃないってわかっても、先生がカッコいいのは変わらない。ううん、前よりもずっと素敵……かな。
「十五分後に裏門にこれるね?」
 優しい言葉が断固とした響きで言う。
 あたしが勝手にそう思っているだけなのかもしれないけど、穏やかな声の調子とはうらはらに先生の言葉は強く届く。えっちのさいちゅうの、優しいけれど鋭い先生の目を反射的に思い出してしまう。
「出てこれるだろう?」
「あ、はいっ」
 藤元先生の視線から逃げるように斜めにちょっと体勢を変えて、手の中の機器に頷き返した。佐上先生の呼び出しを断るなんて、そんなことがあたしにできるわけがない。毎日二十四時間、いつでも常に、先生に抱かれることを考えてるのに。
「大丈夫です、行きます」
「よし、いいコだ」
 先生がくすっと笑う声が聞こえる。どうしよう、ドキドキしすぎて息ができない。声が出ない。手が震える。
「あの、センセ……」
「いいね、おとなしく待っておいで」
 念を押すようなその一言だけを残して、呆気なく電話はぷつんと切れた。





「あいつ、怒っていたか?」
 急に激しくなったきた雨の中、言われたとおり裏門の陰で待つこと五分。目の前に現れたシルバーグレイの見慣れた車の中には、涼しげな美貌がハンドルを握っていた。ほどけたようにひとすじ額に落ちた前髪が異様に色っぽい。ドアを開けて乗り込んで傘をたたむあたしに一つだけ頷いて、佐上先生は車を進ませた。何を言っていいかわからないからあたしも黙ったままだった。裏門からまっすぐ駅の反対側へ向かう窓の向こうは、しーんとした時間が積み重なるのと比例するかのようにどんどんと知らない光景になっていく。
 そんな重い空気に耐え切れなくなって口を開こうとした瞬間、先生は横顔のままそう言った。
「え?」
 言葉の意味がわからない。思わず眉を寄せると、先生も同じようにちょっとだけ眉をひそめた。
「怒ってなかったのか。電話ではえらく怒鳴っていたが」
 そう続けられてようやく藤元先生のことだと気付いた。テーブルの上に広がっていた問題集を鞄に放り込むあたしをわざと無視するように、お弁当の残りを黙々と食べる横顔を思い出した。確かにちょっと拗ねてたようなカンジはしたけど。
「えーっと、んーと」
「怒っていただろう?」
 確認するような響きにそっと視線を送ると、その唇の端が歪んでいた。ちょっとだけ細まった目は、いつものクールな表情とは随分イメージが違う。優しい目。優しい横顔。でもそのまなざしはあたしじゃなくて、センセの想像している藤元先生の怒った顔へ向けられたものだけど。
「あ、はい。えっと、その。怒ってた、と思います」
「そうか」
 正解をきちんと答えた生徒に満足したようにくくっとのどの奥で笑うと、佐上先生は額に落ちた髪を掻き上げた。白い指先が流れるように動く。すうっと伸びた人差し指の爪の形がきれい。
「俺のことがよっぽど気に入らないと見えるな」
「えっ。そんなことはないと思いますけど」
 反論するつもりなんてないけど、だってそうとしか見えないもん。先生たちってホントに友だち同士ってカンジだから。
 でも佐上先生はちろりと一瞬あたしを見ただけだった。
「そうか?」
「はい。先生たち、すごーく仲良さそうです」
「ふーん」
 気のなさそうな声で先生が頷くと、いったん撫で付けられたはずの前髪が元のようにほろりと額に落ちる。眉の端を半分ほど隠すその前髪がこそばいのか、先生がきゅっと目を細めた。その目がその表情がその横顔が、本当に。
「男と仲良しなんて言われても、嬉しくないな」
 呟くようにそう言うと、先生はきゅっと車を停めた。目的地に着いたのかなと雨で半分くらい隠れた窓を透かして見回しても、中央にラインの引かれていない平べったい田舎道はどこにでもありそうで、逆にどこだか全然わからない。
「せんせ、ここ……?」
 でも先生はあたしの問いかけには全然反応しないまま、かちゃかちゃとあちこちを操作してからハンドルから手を放した。ぽふっとシートに背中を沈めてふうっと小さく息をついて、そして首を回してあたしを見た。その視線に射すくめられたように動けなくなる。思わず背筋をピンと伸ばしてしまう。
「あいつとヤったか?」
「えっ?」
 突然のその言葉に返事ができない。ぽかんと口を開けたままぱちぱちとまばたきだけを繰り返すあたしに、先生は小さく笑った。
「さっきまで、あいつに抱かれてただろう?」
 ごまかすことは許さないと言いたげな冷たく断定的な声も、ちょっとだけ目を細めた微笑むような表情も、唇の端を指でなぞる仕草も、その全てが。
「武志はどんなふうにおまえを抱いた?」
 低く笑いながら先生は背中を丸めるようにしてあたしを覗き込んだ。すうっと伸びた眉も目元に扇形の影を落とす長いまつげも、両端がきれいに上がった唇も、一瞬メイクしているんじゃないかと思うほど鮮やかで艶やか。細くて長い指があたしのあごを軽くつまんで、くいと上を向かせる。あっと思う暇もなく唇を奪われる。侵入してきた舌が荒っぽく口の中を掻き回して、そして飽きたようにふいに離れていく。
「また縛られたか? 気持ちよかったか? 何回くらいイった?」
「や、せんせ……」
 こんな目で見つめられてその唇でキスされて平然としていられる女の子なんているわけない。いやらしい言葉を囁かれているのにうっとりしてしまう。もっと言って欲しいと思ってしまう。もっとひどいことを言って欲しいと思ってしまう。
「どんなふうにされると一番感じるんだ?」
 ゆっくりと伸びてきた腕が肩を抱いて、強引な力で運転席に引っ張り込んだ。ひざの上に横向きに座らされて、胸に頬を押し付けるような体勢でぎゅっと抱きしめられる。先生の心音が薄いシャツ越しに伝わってくる。先生の心臓の音が聞こえる。そんなこと、当たり前だと思うのに。

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