マスカレイド 第二部
あいするいみは-16

 その話題が出たのは、なし崩しにお昼タイムに入って十分くらいしたところだった、と思う。
「一回スッキリしたワケだし、先にメシ食おうぜ。俺ぁ腹減ったよ」
「本能だけで生きてるんだな、おまえは」
 ムードもへったくれもない藤元先生の言葉とそんな藤元先生に呆れ顔の佐上先生は、使い終わったウェットティッシュをポリ袋に放り込むと、言葉とはうらはらに仲良く立ち上がった。痺れた手首を撫でながら二人の後ろ姿を一瞬ぼおっと見送りかけて、あたしは慌ててブラウスのボタンを留めた。脱ぎ捨てられていたショーツを穿き直して髪を手櫛で整えながらテーブルに向かう。パイプ椅子を引いて奥のほうにまだ響きの残っただるい腰を下ろすと、テーブルの上の大きなコンビニ袋の中身をガサガサと探っていた藤元先生が顔を上げた。あたしを見てニカっと笑った。
「ほい。これ、芝口のな」
 あたしの大好きな、野菜たっぷりサンドとソーダをゴツイ手が目の前に置いてくれる。その横に次々と並ぶ、コロコロチーズのソフトフランスパンと、ツナタマサンド、明太子とテリヤキチキンの変わりむすびが一つずつ。遅れて出てきた、五種の野菜のマカロニサラダとシャキシャキレタスのサラダパスタと、点心盛り合わせセット。点心盛り合わせはぱかっと開けられて、あたしのいつもの取り皿になった。
「あ、ありがと」
「おー」
 嬉しそうに頷きながら、藤元先生はミックスフライ弁当のパッケージを開けた。
「さぁてと、メシメシ。いっただきまーす」
 鼻歌でも歌いそうな顔でぱちりと割り箸を割る藤元先生の斜め向かいから伸びてきた手が、黙ってサラダパスタを手元に引き寄せた。乱れた襟元のまま、何か難しい事を考えているような表情でパスタの蓋を開ける。期待通りの優雅な手つきが、安っぽいプラスティックのフォークにパスタをクルクルと上品に巻いた。夏休みが終わって二週間も経って、こうやって一緒に食べるのも久しぶりのはずなのに、でも毎日見てるような気もして、なんだか不思議。
 そんなことを考えながら、あたしはソーダの蓋をきゅっとねじった。じゅわっと乱暴に弾けるソーダで、なんかイロイロと変な味を洗ってから、そおっと飲み込む。もう一口ソーダを含んで、口の中を落ち着けてからサンドウィッチをかじった。もしゃもしゃと響く自分の咀嚼音が周囲の音を遠ざけていく。そうやってしばらく三者三様にランチタイムを満喫していた、そのときだった。
「あ、そうそう、芝口。さっきのアレな、こっちにも届いてたぞ」
 エビフライの尻尾をお弁当箱の端っこにそっと除けて置くと、何の前触れもなく藤元先生はそう言った。
「さっきの、アレ?」
 意味の通じない突然の言葉に眉をしかめると、藤元先生はいたずらが見つかった子どもみたいに笑った。
「わりぃわりぃ、こんな言い方じゃわかんねぇよな」
 おかしそうに目を細めながら、藤元先生はお箸の先に刺さっていたコロッケを口に放り込んだ。次いでご飯を山盛り乗っけたお箸をぱくっとくわえて、もしゃもしゃと三回ほど噛んで、そしてごくっと飲み込む。相変わらずの肉食獣っぽい食べっぷりの向かい側では、銀のフォークを扱ってるみたいに繊細な指使いがパスタを食べている。アンバランスで不思議な光景に、ホントにどうしてこの二人が仲良しなんだろうって思う。何がきっかけで友だちになったのか、いつか訊いてみたい。
「合格通知だよ。必要書類とか書いてあったし、あとで渡すわな」
「合格通知?」
 明るい藤元先生の言葉に、静かにパスタに向かっていた佐上先生が顔を上げた。
 えっちのときもそうだけど、食べてるときも佐上先生の横顔は上品で涼しげで、本能的な行動を取ってるなんて思えないくらいにキレイ。トイレのときでもきっとそうなんだろうな、なんて考えちゃうのは、ちょっと下世話すぎるかもしれないけど。
「おう、そうよ。芝口、受かったんだぜ、静凛女子。大したもんだろ?」
 なぜか自慢げに言いながら、先生はお箸を持ったままの右手をあたしに伸ばしてきた。頭を撫でようとして、手の中のお箸に気付いたらしく、ぐーのままのこぶしをごりごりと前髪の辺りにこすり付ける。痛いって文句言ってやろうかと一瞬思ったけど、でも本当に喜んでくれてる藤元先生の様子が嬉しいから、今回はだけは言葉を飲み込んであげる。
「芝口が……、そうか」
 でも佐上先生は藤元先生とは真反対のリアクション。
 そりゃ、佐上先生が担任する特進クラスの生徒たちはポコポコ国公立に受かるから、それに比べたらお嬢さま大学なんか別にどーってことないのかもしれない。あたしにとっては精一杯背伸びしてギリギリ受かった大学なんだけど、でも褒めてくれそうな雰囲気じゃないかな、とか考えてると、佐上先生は食べかけのパスタ容器の上にそっとフォークを置いた。
「そうか」
 難しい顔で小さく頷くと、先生はテーブルの上でくしゃっと丸まっていたネクタイを引き寄せた。ネクタイを握った手をポケットに入れながらすっと立ち上がる。
「芝口も、高校生じゃなくなってしまうんだな」
「おい、仁?」
 お箸片手の藤元先生の訝しげな声なんて全然聞こえてないみたいに、佐上先生の目はまっすぐあたしに向けられていた。その視線にその表情に、寒気がした。
 あたしはわかっている。たった今、わかってしまった。佐上先生がなにを考えているのかを理解してしまった。でもそれは認めたくなくて、認められなくて――。
「せんせ、でも、まだ……」
 卒業まで半年もあるんだよって、まだまだあたしは高校生だよって、明日だってガッコにくるんだからって言いたいのに、乱れた前髪のあいだから見える物憂げなまなざしにのどをぎゅっとつかまれたみたい。言えることも言いたいこともいっぱいあるのに、気持ちは焦ってるのに、なのに。
「今日で終わり、か」
 思った通り、そして願わなかった通り、佐上先生は静かにそう言った。
「せんせ……」
 わかっていた。最初っから、こんな日がくるってわかっていた。先生の好みの『イマドキじゃない女子高生』に当てはまってたからあたしに手を出しただけ。あたし自身に興味なんてなかった。手近にいて便利だから、抱きしめたりキスしたり、大切にしてるふりをしてただけ。
「芝口。さよなら、だ」
 キレイな指が髪を梳くように撫でて、背を丸めるように顔を覗き込んできて、そっとふれるだけのキスをした。
「せん、せっ……」
 わかってても嬉しかった。大好きだった。何度でも抱かれたかった。卒業したらそれっきりだってわかってたし、納得もしていた。でも、それはもっと先のことだって、卒業までは続くんだって思っていたのに。安心していたのに。信じていたのに。
 でも、これが最後。これで最後。次にもし会っても先生は知らん顔する。あたしのことなんか知らないふりをする。ううん、見もしないかもしれない。視線を合わせることさえしてくれないかも。
「さようなら、芝口」
 それでも、細まった目が寂しそうだと、それはあたしのせいだと、先生はあたしと別れるのはホントはイヤなんだと、そう思いたかった。思っていたかった。あたしの勝手な思い込みでいいから、せめて、それだけ――。
「仁! おい、待て! 待てってばよっ!」
 涼しげな後ろ姿と大きなポロシャツの背中と怒鳴り声が競うようにドアの向こう側に消えていくのを、あたしは食べかけのトマトサンドを手に、パイプ椅子に座ったままぼーっと見送った。


 そのあと、そのサンドウィッチを食べたのか、午後の授業にちゃんと出たのか、帰るまでなにをしてたのか、そしてどうやって家に帰ったのか……。実は、ほとんど覚えてない。

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