マスカレイド 第二部
あいするいみは-23

「んじゃ俺は、一人寂しく風呂入ってくっから」
 電話口に向かって、ミックスフライセット、ステーキ丼、唐揚げオードブル、ピザとホットサンド、あとビールとコーラ、なんて大量の注文をしてから、先生はソファから立ち上がった。わざとらしく哀しげに溜息をついて見せてから一人で大笑いして、のしのしとドアへ向かう。ムダに頑丈そうな後ろ姿を見送りながら髪を拭いていると、くるっと先生が振り返った。
「春奈。メシ来たら、先に食ってていいからな」
「え、あ、うん」
 先生は多分、あたしがお腹空いてるだろうからって気を使ってくれたんだろうけど、でもあたしが先生が上がってくるのを待ってるだろうってホントはわかってると思う。わかってて、それでも言ってくれてるんだと思う。もしあたしと先生のお風呂に入る順番が逆なら、先生は絶対に待ってくれてる。だって、わざわざお弁当抱えてマンションまで来てくれるような人だもん。
「いってらっしゃーい」
「お、おお」
 ひらひらと手を振って見せると、先生はちょっとびっくりした顔をして、それから笑ってドアを閉めた。
「ヘンなひとー」
 でも、わかってた。だいぶん前から、先生がそう言う人だってことはわかってた。先生はあたしのことを見てくれる。授業中もえっちのときも、それ以外のときも。それは多分、責任とか義務とか罪悪感とかそういうことで、あたしだからどうのってことじゃなくって、困ってる人がいたら親身になってしまうタイプの人なんだろうけど。だって、あたしが好きなのは佐上先生で、藤元先生じゃないし、そのことは藤元先生だってよく知ってるはずだし。
 どうしてパパと結婚したのって訊いた小学生のあたしに、主婦だったママはにっこり笑って、パパはとっても優しいのよ、春奈もよく知ってるでしょって言った。女は愛されるのが幸せなの、もうちょっと大きくなったら春奈もわかるわって、ちょっと恥ずかしそうに笑っていた。でもママはその数年後、優しいだけのパパを切り捨てた。
 愛されたから優しくしてくれたからその人を好きになったなんて、安易でバカな選択をしたわとまで言ってしまったママの気持ちはわからないけど、がんばって好きになってもどこかに軋みが出ちゃうものなのねって呟いたママの横顔はいつもと変わらなかったけど、でもやっぱりママはママで苦しんでたんだと思う。もちろん、言われたパパのほうがずーっと可哀相だったけど。
 だから、怖かった。先生がそんなつもりじゃなかったら、あたしの勘違いだったら、あたしは今度こそ本当にひとりになっちゃう。
 ――なのに。
「どうしよう……」
 なんだか居ても立ってもいられなくて、あたしは無意味にウロウロとソファの周りを裸足で歩き回った。
 多分あたしは、藤元先生を好きになってきてる。もしかしたら、もうだいぶん前から好きだったのかもしれない。もともと藤元先生のことはキライじゃなかったし、担任に決まったときにはラッキーって思ったくらいだし。まぁそのときは、こんな関係になっちゃうとは夢にも思ってなかったわけだけど。
「うおりゃっ!」
 誰もいないのをいいことに、子どもみたいにベッドにダイビングする。ごろごろとシーツを転がると身体に巻いたバスタオルがほどけていく。胸元を両手で押さえながら転がっていって、枕にぽふっと顔をうずめた。こっちがさっきまで藤元先生が使ってた枕みたい。タバコのにおいがする。
「なんか、このにおいも慣れちゃったなぁ」
 藤元先生との二人っきりの時間は、佐上先生との時間よりも長かった。お昼にお弁当を買ってもらって勉強を教えてもらって、ときどきはえっちもして。そうやって二人の時間を過ごすうちに、自分じゃ気がつかなかったけど、ゆっくりゆっくり好きになってたのかもしれない。それでも順番をつけたら、佐上先生のほうがずーっと上なんだけど。
「それは、仕方ないよね」
 あたしは佐上先生が好きだった。あたしのことが好きなわけじゃなくてもそんなに優しくなくても、それでもよかった。抱かれるだけで嬉しかった。そんな日がいつまでも続くことだけを願っていた。今だってホントは、藤元先生とじゃなくって、佐上先生と一緒にいたい。抱かれたい。抱かれたい、けど。
「でも、ね……」
 でもそれは、もうムリなんだってわかってる。
 大学生になっちゃうことが決まったあたしは、もう佐上先生の好みのタイプじゃなくなってしまった。もう二度と佐上先生には抱かれない。話しかけることも、近寄ることさえできない。なんにもなかった頃みたいになんにも知らなかった頃みたいに、あたしと佐上先生を繋ぐものはもう全部消えてしまった。改めて考えると、人生投げ捨てたいくらいの衝動に駆られるけど、でも哀しんでてもなにも変わらない。誰も助けてくれない。助けて欲しいなら、顔を上げて目を開けて、手が届くところまでは自分で出てこなきゃ。バカみたいに必死に、助けてくれようとしてる人はいるんだし。
「ホントに、バカみたいだけどね……」
 あの底なしのお人好しさって、どっから出てくるんだろう?
 メトロノームみたいに、シーツの上でぱったんぱったん左右に半回転しながらいろいろ考えていると、胸に差し込んだバスタオルの端っこがするっと抜け落ちた。身体から剥がれて抜け殻みたいにシーツに広がったバスタオルに手を伸ばしたその瞬間、カチャッとドアの開く音がした。
「あー、さっぱりした」
「あ、わっ! わわわっ」
 あっちのほうから聞こえてきた先生の声と気配に、慌てて指先に当たったバスタオルを引き寄せたけれど、どこかに引っかかったのか全然手元にきてくれない。こうなったら仕方ない。バスタオルをあきらめて、あたしは毛布の隙間にもぐりこんだ。首まで全部隠れてからそおっと視線を向けると、バスタオルを腰に巻いただけの先生がぽかんと口を開けてこっちを見ていた。
「おまえ、なにしてんだ?」
「べっ、べつにっ」
 ぶんぶん首を振るあたしに、先生はちょっときょとんとして、そしてニヤっと笑った。さては、なんて言いながらガリガリと髪を拭く。
「なんだ、こっそりオナニーでもしてたか……てっ、でぇっ!」
 あたしが投げたにしては見事なくらいど真ん中、マンガみたいに顔に枕をぶつかった先生がくぐもったうめき声を上げる。
「痛てーじゃねーか、このやろうっ」
 叫びながら先生は足元に落ちた枕を拾い上げて、軽くベッドに叩きつけた。怒ったふりしてるだけなのは顔見ただけでわかるから、あたしだって引かない。
「あたしは野郎じゃないしっ! 女の子だし!」
「そーゆーこと言ってンじゃねえ!」
 どかっと音を立ててベッドに上がってくる。毛布にかじりついて、怒ったネコみたいにぐるるって唸ったあたしに、先生は人が悪そうな笑みを浮かべた。
「そんな強気に出ていいのかな? 春奈チャン」
 ふふん。そんな感じでエラソーにあたしを見下ろしてから、先生はぐいっと腕を突き出してきた。
「これ、なーんだ?」
 高く上がった右手から、白い布が風のない日の旗みたいにたらんと垂れ下がっていた。これってなに? って考えないとわからないような物じゃない。さっきまであたしを隠してくれてた、そしてこれからも助けてもらわないといけない、大切な大切な。
「あたしの、バスタオルーーっ!」
「ここに捨ててあったぞ」
「捨ててなんかないよっ、返して!」
 毛布から右手だけ伸ばして端っこをつかもうとしたけれど、見事な反応速度で急上昇したバスタオルは、指のあいだをすり抜けた。届かない位置でひらひらする、今のところ唯一のあたしの服が戻ってきてくれる気配は、全然ない。
「なぁ、春奈。遺失物法って知ってるか?」
 そう言ってニコニコ笑う楽しそうな顔は、子どもっぽくてかわいいって一瞬ちょっと思ってしまいそうだけど、でもそこに掛かってるのがあたしのバスタオルとなると、話は変わってくる。
「知らないよっ、とにかく返してっ!」
 右手をぐっと突き出したあたしに、先生は溜息つきでわざとらしく首を振った。
「だろうなぁ」
 一般常識の範囲内だと思うけどな、なんてつぶやく言葉がイヤミったらしい。物を知らなくて悪かったわね、だからそれがなんなのよって思いっきり睨みつけても、超余裕顔は全然変わらない。さっき、先生に悪いことしたかもって悩んでたのがバカバカしい。ごめんなさいってお風呂で思ってたのも、全部取り消しなんだから!
「遺失物法によるとだな、落とし主は拾い主に五から二十パーセント相当の報労金を払わなければならない」
「二十パーセント、って……バスタオルだよ?」
 それを言うなら、そもそもあたしは落としたつもりもないんだけど。
「うむ、不可能だな。だから、だな。持ち物じゃなくって持ち主から払わせればいいと俺は気づいたわけだ。と、言うわけで」
「きゃあぁっ」
 バスタオルをぽいと背後に投げ捨てた先生がダイブしてくる。それでなくても力が強い先生に体重をかけて毛布越しにぎゅうっと抱きしめられると、文字通りあたしは手も足も出ない。まぁ手足を出したところでつねったり引っかいたりが限界だし、無事逃げ出せたとしても裸だし、逃げようもないんだけど。
「やっ、ちょ、ちょっと! せんせっ、ホントに苦しいっ」
「おまえの二十パーセント分をもらおうか」
「それちょっと意味わかんないし!」
 あたしのまっとうな抗議なんてどこ吹く風、理不尽な担任教師は聞く耳も持たず、がぷっと生徒の耳に歯を立てた。
「やぁっ、たすけてーっ!」
 思わず悲鳴を上げたあたしをおもしろがるように、先生は首すじにふぅっと息を吹きかける。まだ濡れた髪に当たった冷たい息に鳥肌が浮く。反射的に、あたしは唯一動かせる頭をぶんぶん振った。
「やっ、やだぁっ!」
「ほーら、食っちまうぞー」
 笑みの混じった低い声と舌先がざらりと音を立てて耳の中に入ってくる。耳のふちをすうっと撫でるように舐めて、耳たぶをちゅっと吸い上げる。それだけで身体が熱くなってくる。
「やっ、あ、ん……」
 もうさっきあんなにいっぱいしたのに、またちょっとそんな気分になってしまう。どうしよう、ドキドキする。耳なんかじゃなくってもっと違うとこを、なんて考えてしまいそうになる。
「なんだ、いい声出すじゃねーか」
 笑い声が耳元をくすぐる。毛布越しに先生の手が肌を撫でる。先生が身動きした拍子に、胸の辺りに大きな手のひらが当たるのがわかった。わざとなのかそうじゃないのかはわからないけど、こすり付けてくる指先は位置を探ってるみたい。こりっと強く押さえつけられると、どうしても気持ちよくなっちゃう。
「あ、んんっ……」
「ホント可愛いな、おまえ」
 くすくす笑う先生の手は、確実にさっきまでと違う動きになってきてた。お腹の辺りに先生のが当たってるような気がする。毛布越しだからはっきりとはわからないけど、ぐうっと押し付けられてるような気がする。もしかしたらあたしの勘違いなのかもしれないけど、でも、この感触は多分――。
 ピー、コロコロコロ。ピーン、ポーーンーー。
 そのとき、鈴を転がすようなキレイな音がどこからか聞こえてきた。玄関のチャイムにしてはにぎやかな音に先生はがばっと顔を上げる。
「おっ、やっときたか」
 言いながら先生は勢いよく起き上がった。やらしい目つきはどこへやら、さっきまでと全然違う顔でドアのほうを見て、スイッチが切り替わったように簡単にあたしから手を離す。
「え、なになに?」
 ずしっとくる重みから逃れて逆に慌ててしまったけど、先生はそんなあたしにも気づかないみたい。
「メシだメシ。おまえも腹減ったろ。待ってたんだよな〜」
 嬉しそうに何度も頷きながら先生はベッドを降りた。そのままいそいそと出入り口のドアに向かって歩いて行く。ウキウキした後ろ姿がドアを押し開けるのを、思わずぼーっと見送ってしまう。
「えーっと、たすかった、ぁ……?」
 一瞬ムっとしたんだけど、でも先生は冗談だったのかもしれないのに、怒るのってホンキすぎるし。
「春奈ぁ、ちょっと来てくれっ」
「あ、はーい」
 ドアの向こうから聞こえてきた声に慌てて返事をして、あたしは毛布を剥ぐようにベッドから起き上がった。くしゃっと丸まっていたバスタオルを身体に巻いて、念入りに端っこを胸に差し込む。ムリヤリ入れてるからちょっと痛いくらいだけど、でもこれくらいじゃないと解けちゃう。解けたら先生は喜ぶかもしれないけど。
「喜んでくれる……、かな?」
 さっきは毛布の中に逃げ込んだくせに、先生があたしに背を向けると不安になる。見られるのは恥ずかしいけど、でも見たいって思われたい。
「おーい、春奈ぁっ」
「はいはいっ、今行くっ」
 ベッドから降りると、冷たい床が足の裏にぺたっと張り付く。ペタペタ歩きながら途中に転がっていたスリッパをつま先に引っ掛けた。
 ――こういうの、イヤなんだよね。
 もしかしたらとか思いすぎちゃって、ワケがわかんなくなる。佐上先生は『女子高生のあたし』が好きなだけってわかってたから、優しくされてもそんなに迷わなかったけど、藤元先生はなにを考えてんだかよくわかんない。気にしたって仕方ないって思うけど。だけど。
 よしっ!
 一つ大きく息を吐いてから、あたしは思い切りよく握ったノブを引いた。と、そこには。
「うわぁ、すごい量!」
「だろぉ?」
 玄関っぽい入り口脇のカウンターには、乗るだけ乗せましたってカンジにお皿の並んだお盆の隊列ができていた。びっくりするあたしに向かってうんうん頷く、その嬉しそうな顔。
「そこ通るから、ドア押さえててくれ」
 言いながら先生は、あたしだったら一つ持つのがやっとかもってぐらいたっぷりお皿の乗ったお盆を、片手に一つずつ、軽々と持ち上げた。
「せんせ、大丈夫? ひっくり返さないでよー」
「おお、任せとけ! 春奈はそれ頼むな」
 ウキウキ、なんて吹き出しを勝手につけたくなっちゃうような顔で、カウンターに残ったビールジョッキとコーラとホットサンドだけが乗ったお盆を目で指すと、先生はドアを抜けて行った。声もいつもよりおっきくて、あきれるくらいテンション高い。
「ホントに、子どもみたい……」
 ――かわいいから、許すけど。

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