マスカレイド 第二部
あいするいみは-24

「いっただきまーっす!」
「……いただきます」
 テーブルに所狭しと並んだ大量のお皿を前にぱちんと手のひらを合わせると、先生は本物の幼稚園児より元気よく叫んだ。身を乗り出して大きなオードブル皿にかけられた薄いラップを剥がして、お皿の真ん中に盛られていた小振りの唐揚げに忙しげに割ったお箸を伸ばす。もぐもぐと頬を動かしながら他のお皿のラップを次々と剥がしては、全部開け終わるまで待ってられないってカンジで、何かをつまんでは口に放り込んでいく。もともと豪快な人だけど、でもこの食べっぷりって、もしかして……晩御飯、まだ?
 思わずケータイのサブ液晶で時間を確認した。十一時三十二分。こんな時間まで、あの藤元先生が?
「お、これもうまいぞ。ほら、春奈」
 選んで食べたに違いない、真ん中の一番大きなお肉をもぐもぐしながら、先生は歯抜けになったステーキ丼をあたしのほうに押し寄せた。あたしがどんぶりを受け取るより先に、ピザをお皿から一切れ引っ張って、そのままぱくっと噛み付く。
「んー、ピザもうまい!」
 チーズの糸を口の端から垂らしながらあっという間に一切れ食べ終えると、先生は二枚目に手を出した。それもパクパクと一気に食べていく。いつもながらの食べっぷりにちょっと感動しながら、あたしもお箸をぱちりと割った。
「うまいなぁ、やっぱこのホテルは最高だよなぁ」
 うっとりとつぶやく先生のお箸の先には、半分以上欠けたコロッケが挟まっていた。かじった跡から見えるトロッとした白い中身と俵型の形状からして、クリームコロッケみたい。『やっぱ』とか言うところを見ると、このホテル初めてじゃないんだよね。来るときだってここにあるってわかってて来たってカンジだったし。何回くらい来てるのかな、それって当然恋人さんがいるってことだよねとかなんとなく考えながら、うんうんと嬉しそうに何度もうなづく先生の横顔をそっと見た。その人の前でも先生はこんなカンジでパクパク食べてるのかな。
「あー、うめーっ」
 先生はあたしが見てることなんて全然気づいてないみたい。呻くように感嘆の声を上げて残りのコロッケをぱくっと食べた。次いでご飯を入るだけガバっと詰め込む。ぷっくり膨らんだ頬と、もぐもぐ動くあご。その人も、こんな先生を見てるのかな。
 なんとなく、髪の長いお姉さんを思い浮かべながら、あたしは斜めに薄く切られたステーキにお箸を伸ばした。中央に赤い部分が残ったお肉とガーリックしょうゆのタレが絡んだご飯を一緒に頬張ると、予想以上の肉汁が口に広がった。
「あ、ホントにおいしい」
「だろぉ?」
 キラキラした目で頷いてから、先生は唐突に食べかけのお皿を置いた。
「そうそう。うっかり忘れるところだった」
「んー?」
 どうしたのって目で問いかけるあたしに曖昧に笑いながら、先生はソファのひじ置きからぐっと身を乗り出した。脱ぎ捨てた服と一緒に床の上でぐちゃっとなっていた茶色のボディバッグの肩ひもを指に引っ掛けて、一気に手元まで引き寄せる。
 なんだろ、ケータイ確認するのかなって思いながら丸く盛られたマカロニサラダのてっぺんをもこっとすくい上げていると、先生はバッグからお財布を取り出した。真っ黒の革に同じ色目のひもの太いチェーン、ダルマさんなんて気軽に呼んだら怒鳴りつけられそうに怖い顔のダルマがくわっと見開いた目でこっちを睨みつけるいかついデザイン。派手な和柄の私服といいゴツいシルバーリングといい、これを先生が持ってるってことにはもはやなんの疑問もないけど、でもなんで留め金のボタンがピンクの桜なのちょっと可愛すぎるでしょって心の中でツッコミながら、あたしはお箸の先にたっぷりと刺さったマカロニをぱくっと咥えた。
「ほいよ、春奈」
「え、あ、はい」
 太い指がお財布の中からつまみ出してきたなにかを反射的に受け取ってしまう。全長五センチほどで半円の部分には丸い大き目の穴が開いてて、そこから伸びた細長い長方形は山折り谷折りデコボコ、あちこちが欠けていて、金属製。これは間違いなく。
「カギ?」
「そう、カギ。って言うか、カギしかないだろ。他になんに見えンだよ」
 そんな言い方ってないと思うなー。
 ぷうって頬を膨らませるあたしにおかしそうに頬をゆがませながら、先生はビールのジョッキを持ち上げた。ぐおーって表現が一番相応しい勢いでジョッキが傾いて、あっという間に半分ほども空になる。
「ちょ、ちょっと、せんせ。そんなに飲んで大丈夫?」
 さっきすでにジョッキを一つ空けてるのを見てるから、少なくともこれで二杯目。このジョッキにどれくらいの量が入ってるのか、先生がどれくらいお酒に強いのかは知らないけど、ちょっとは気になる。
「ん? どーせ今日はもう泊まるしな。おまえも、別にいいンだろ?」
 明日マンションまで送ってってやっから、って、白身魚のフライをかじりながら気楽な顔で笑う。担任教師としては問題アリアリ発言だけど、でもこんな関係になっちゃってるんだから、それはもう今さら。ただやっぱりお泊りとかってちょっと雰囲気的にラブラブっぽすぎて、別のことが気になる。
「えー、ちょっといいのー? 彼女サンに怒られない?」
「あっ? いねーよ、彼女なんて」
「えええっ? って、あぁっ!」
 からかうような言葉を向けたあたしに、先生はあっさり頷いた。簡単に返ってきた返事にびっくりしすぎたあたしの手から、つかんだばかりのホットサンドが滑って逃げる。
「はーるなー。なーにやってんだよー」
「うううぅっ」
 ホットサンドがテーブルの下まで転げ落ちた衝撃に悲鳴を上げたあたしを、先生はケラケラ笑う。もともとは先生のせいなんだからねってちょっと睨んでから、ふちがぐるりとキレイに焦げた三角形を急いで拾い上げた。
「やー、もったいないー」
 ええい、いいや。土の上に落ちたわけじゃないし、食べちゃえ。
 意を決して、ってほど大げさなことじゃないけど、それなりに勢いをつけてぱくっとかじりつく。やっぱ捨てなくてよかったって心の底から思うような、とろーりチーズとベーコンの甘い脂がじゅわっと口の中いっぱいに広がった。先生じゃないけど、ホントにここのホテルのご飯はおいしい。おいしいってそれだけで幸せ――はいいけど、先生はホントに彼女いないのかな。ホントに? でも何回も訊き返したらまた怒られそうだし。でもちょっと突然すぎて信じられないよ。佐上先生ほどじゃないけど、藤元先生だって人気あるのに。絶対モテそうなのに。
 もりもりステーキ丼をたいらげてる先生の様子を横目で伺いながらホットサンドを食べてると、唐突に『なぁ、春奈』って先生の声が聞こえた。
「なぁに、これ? 食べていいよ」
「いや、そうじゃなくって」
 お皿に残ったもう一切れのホットサンドを目で差すと、先生はお財布をバッグにしまいながら苦笑した。そりゃまぁ、もともとは全部先生のだし、食べていいってあたしが言うことじゃないけどね。
「よっこいしょ、っと」
 バッグを元通り床に放り投げるように置いて、眉を寄せながらふーっと大きく息をついて、先生は意を決したような顔であたしを見た。
「おまえさぁ、家に帰るのが嫌なんだろ?」
「え、あ、いや……」
 ウチのことが先生にバレてるのは知ってたけど、今までこんなに直球で突っ込まれたことがないからどう答えていいかわかんない。お酒飲んでるせいなのかな、二人でホテルって状況のせいかな。そりゃ先生はどっちかと言うと、はっきり物を言うタイプだけど。
「まぁその、イヤっていうかー」
 言いにくそうに口ごもるふりでそっとうつむいて、あたしは先生の視線から逃げた。
 ウソをつく気もごまかす気もないけど、でも好き嫌いだけじゃ割り切れないことがある。白黒のつけられない、口じゃ説明できない感情がある。
「確かにね、家に帰りたくないこともあるよ。でもそれは――」
 あたしはママを恨んでるわけでもパパを嫌ってるわけでもない。ただ、広いリビングで夜遅く一人でぽつんと座ってると、ママもパパもここには帰ってこない、あの頃はもう二度と戻ってこないって事実を目の前に突きつけられるみたいで、でもあたしはそれを認めたくなくって、だから。
「んでな、俺も考えたワケよ。おまえは家に帰りたくない。俺はおまえに街をうろついて欲しくない。で、いろいろと考えた結論が、コレだ」
 あたしの言葉をさえぎるように一気に言い切ると、先生はチャラリと鳴る手の中のカギを指差した。釣られてそこに目を落とした。そうそう、話の展開から一瞬うっかり忘れかけてた。
「このカギって、どこの?」
「俺ン家のカギ。正確には、俺が今住んでるアパートのカギだ」
 言いながら先生は、テーブルの隅っこの、今にも落ちそうな位置で頑張っていたタバコに手を伸ばした。一本を取り出して唇に咥える。かちっと音がして火が点く。タバコの先から細い煙が上がる。溜息みたいな、大きな大きな白い煙の固まりが先生の口から吐き出される。しばらくのあいだ、あたしはそれをぼーっと見ていた。
「えっ? ご、ごめん。えっと、これって」
「俺の、アパートの、カギ」
 慌てて謝るあたしの顔を見ようともせず、先生は大量の煙を吐き出しながらぶっきらぼうに繰り返した。
「今日でもそうだ。ここでおまえを一人で帰してみろ、またふらふらするんだろうが、おまえは」
「そんなこと……」
 しないと思うけど、でも声をかけてきた人がもしも佐上先生に似ていたら。そんなことはまずありえないってわかってるけど、それでも万が一、とってもよく似てたら。
「声かけられてついて行って、トラブルにでも巻き込まれたらどうすんだ? 俺にまた、足を棒にして捜し回れってか?」
 そりゃ迷惑かけたんだろうなって思うけど、それにしたって、なんだってそんなイヤそうな顔するかな。もうちょっと普通に言えばいいのに。そんな目で見られると、ムダにドキドキしちゃう。
「絶対にそんなことないって言い切れねーだろうが。でもそれじゃ、俺も困ンだよ」
 黙ってうつむいたあたしをどう思ったのか、先生は苦々しげに吐き捨てた。
 どんなに似てても佐上先生本人じゃないし、別人なんだから完璧まったくおんなじってことはなくて、髪型とか服とか年齢とか声とかしゃべりかたとか、どこかに決定的に違う部分が入ってるはず。違う部分が目に付くはず。
 でもどんなに違うところがあっても、それでも似てるって思ってしまったら。そのときあたしは断るかな。断れるかな。何度考えても、断れないような気がする。ウソでもいいから抱かれたいって、そう思ってしまうような気がする。
「おまえがな、今も仁のことを好きだってのは、わかってんだよ、俺も」
 短くなったタバコを丁寧にもみ消してから、先生はつぶやくように言った。その名前に、名前が示す人に、自分の気持ちに、あたしは黙るしかない。
「だから、俺じゃ代わりになれないってこともな。でもな、それでも、俺でも、話を聞くことくらいは、できンだろ?」
 迷うように選ぶように、ゆっくりと先生は言う。ぽつぽつと途切れながらそれでも続く先生の声に、あたしはうつむいて手の中のカギを握りしめた。
 先生の言葉は、限りなくあたしの本音だった。藤元先生じゃ佐上先生の代わりにはならない。藤元先生は藤元先生で好きだけど、でも比べちゃうとダメ。これだけいろいろ気を使ってもらってても、あたしを簡単に切り捨てた冷たい背中が好きなんて、藤元先生には言えない。言えないのに言ってないのに、どうして知ってんのよ。どうしてわかっちゃうのよ。
「家に居たくねーってんなら、ウチへこい。メシぐらい食わせてやっから」
 佐上先生はもうあたしを振り返ってくれない。だから、藤元先生を代わりにするしかない。そんなふうに納得しかけているあたしは、なんて自分勝手なんだろう。それなのに、先生はそれでもいいって言う。大切にしてくれるって言う。
 こんなあたしに、こんなにまじめに。
「俺とのセックスが嫌なら、もうやらねーから。ただのメシ友。それなら別にいいだろ?」
 うわ、どうしよう。――泣きそう。
「な、春奈?」
 握りしめた手のひらと硬いカギ。温かいはずはないのに、あったかい。先生の言葉みたいに。先生の手みたいに。
「せんせ……」
「ん?」
 笑いかけようかどうしようか悩んでる顔で、それでも先生は笑ってくれた。そおっと前髪をかき上げてくれる指。優しい声、優しい目。太い首、広い胸、大きな肩。あたしは、この肩にもたれてもいいのかな。
「ごはん、食べさせてくれるの? 勉強も見てくれる?」
 なんとか受かった大学だから、難しかったらどうしようって今から心配なんだよって訴えると、先生は大きく頷いた。
「お、いいぞ。それくらい、いつでも言えよ」
 胸を張って言ってから、でも『わかんなかったらゴメンな』って、申し訳なさそうに大きな肩をすくめた。人文系は苦手なんだよなとか眉を寄せられても、あたしはその基準がわかんないんだけど。
「いつなら、行っていい?」
「別に、いつでもいいぞ。前もって連絡くれたら俺も帰るけど、別に勝手にきても……あ、部屋が汚いのは許せよ」
 男の一人暮らしだったら、それくらいは仕方ないよね。
「お部屋、片づけてあげようか?」
「おっ、そりゃ助かるっ」
 ぱっと目を輝かせた、子どもみたいな顔がかわいい。身を乗り出してまで訊いてくる先生に笑顔に頷き返した。
「まぁ、もうしばらくは窮屈かもしんねーけど、卒業しちまえば、特に問題ってワケじゃねぇしな。あとちょっと……っても、まだ半年もあんのか。なげーなー」
 深く溜息をつきながら先生はタバコの箱に手を伸ばした。抜き出した一本に火を点けてからソファにどてっともたれる。拗ねたような目のまま煙を吹き上げる横顔に笑ってしまう。
「我慢するしかねーか。ここでバレたりしたら、全部水の泡だからな」
「ん、そうだね」
 先生の本音ってどこにあるんだろう。本当はあたしのことをどんなふうに見てるんだろう。そんなことを絶えず考えてるあたしも確かにいるんだけど、あまりにもまっすぐな感情表現を向けられると、疑ってる自分が恥ずかしいような気さえすることもある。
 だって、部屋のカギなんて、誰にでも渡せるもんじゃない……じゃない?
 ぎゅうっと握ったままの左手を右手でそっと撫でた。じんわりした重みを感じる、手の中のカギ。先生の部屋のカギ。
 ――あたしは先生のそばにいても……いいの、かな。
「ありがと、せんせ」
「え、あ……お、おおっ」
 黙って煙を吹き上げていた先生はあたしを見て、なぜか驚いたような顔をした。ロボットみたいにカクカクと何度も頷く、真ん丸の目がかわいい。笑いながら先生の身体に手を回して、ぎゅうっと抱きついた。広い胸にこつんと額を押し当てる。
「ホントに、ありがと、ね。せんせ」
 ――とってもとっても、涙が出るくらい、嬉しい……。

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