マスカレイド 第二部
あいするいみは-25

「あっ、せんせーっ」
 地下鉄と私鉄の乗り入れ駅の、一番細い南出口の階段を上がってすぐ。予算が余ったんでちょっと作ってみたんですが……あまり活用されてません? みたいな雰囲気の、小さな滑り台と二つ並んだブランコだけが置かれた小さな三角公園でその人はあたしを待ってくれていた。公園と歩道を分ける柵兼用の低い鉄棒に腰をかけるようにして足を組んでいた先生が、読みかけの本から顔を上げる。
「どしたの、せんせ。そんなカッコして」
 駆け寄ったあたしを見上げる姿は、ゴツめの身体に不思議なくらいぴったり沿った濃いグレイのスーツと黒い革靴で、午後一時のほのぼのとした公園に違和感ありまくり。普段はTシャツとかポロシャツとか、カジュアルすぎるくらいカジュアルなのに、どうして今日はスーツ?
「なんかあったの?」
「ん、ああ」
 頷く先生のあごは、たいていポツポツ残ってるひげが今日はキレイになくなってた。いつもは洗って乾かしただけが丸わかりで、うっかりしてると寝癖が残っちゃってたりもする髪も、ワックスで流れがきちんと作られてる。
「今日は入学式だったんでな、ちょっとな」
「えーっ、そのカッコでぇ?」
「ああ」
 なんかおかしいかって先生は顔は太い首をひねって見せる。
 確かに、おかしいとかおかしくないとかの問題じゃないけど、二重襟ボタンタウンのシャツと太い縦ストライプのネクタイと襟に差した王冠のラペルピンって組み合わせはおしゃれすぎて、さすがにちょっと教師には見えない。いかにも派手に遊んでますってカンジで、この人が担任って紹介されたら、新入生もその親とかも不安になっちゃうんじゃないかなぁ。
「そっかぁ? こんくらい、フツーじゃねぇの?」
「ん、んーっ。ふつー……なのかなぁ……」
 頭の上にものすごい数のクエスチョンマークが出てきそうだけど、まぁでも校長や教頭からなにも言われてないんなら特に問題もないのかも。あたしたちの卒業式のときってどうだったっけって思い出そうとしても、あのときは他のことにいろいろと気を取られてたから藤元先生のカッコまで見てなかったし。
「まぁ確かに……ヘンじゃないけど、さ」
 冷静に見れば『教師』ってカテゴリ的にちょっとって思うだけで、普段のカジュアル服よりオトナっぽくて断然カッコいい。少なくとも、あたしはかなり好き。
「――ま、これはさっき付けたんだけどな」
 にやって笑いながら先生はラベルピンを指で弾いた。太陽の光を反射するスワロフスキーがまぶしいくらいキラキラする。
「あ、まぁそれなら、許容範囲内だよね」
 一応もっともらしい顔で頷いてはみたけど、でもあたしと会う前にラベルピンを付けたんだぁって、そっちのほうが気になっちゃう。前から持ってたのかな、最近買ったのかな。男の人のアクセサリーなんて全然詳しくないけど、でもネクタイピンとかに比べると実用性ゼロな分だけ、かなりおしゃれだよね。ガッコじゃ毎日ジャージかTシャツだったくせに、今日はこんなカッコでくるなんて、ちょっと反則。ドキドキしちゃうじゃない。
「んだよ、厳しーなー」
 あたしがなにを考えてるか知らない先生は平和な顔で肩をすくめると、読みかけだった新書サイズの文庫本をパタンと閉じた。表紙には太い文字で大きく『不完全性定理』とか書いてあって、よくわかんないけどいかにも難しそう。派手な見た目はともかく、やっぱりこの人は学校の先生なんだなぁって思う。
「そう言えば、せんせは次はどうなったの? また担任持つの?」
「いや、一年の教科担。三年の担任は翌年はフリーって決まってんだ。一年休憩っつーか、まぁ、そういうの」
 あたしに視線を向けたまま、先生は足元に置いていたビジネスマンが持ちそうな平べったいバッグを取り上げた。口の開いたジッパーの隙間に本を滑り込ませる。
「それよりか、そろそろ『先生』はやめろよ。もう俺はおまえの担任じゃねーし」
 よいしょ、とか言いながら腰を上げた先生があたしの顔を覗き込むように背を丸めて、軽く握ったこぶしでおでこをこつんと叩く。目を細めて笑う顔はかわいいしスーツ姿はカッコいいし、今日はなんかすごく照れちゃう。
「え、だって、他になんて呼んでいいかわかんないし」
「名前、知ってンだろ?」
 藤元武志。
 それはもちろん、知ってるけど。
「だって。なんかこう……は、はずかしい、じゃん」
「そっかぁ?」
 よくわかんないヤツだなって言いたげな顔で肩をすくめながら、先生はあたしの手から紙袋を取った。
「うわ、重っ。なんだこの本。教科書か?」
 指に食い込む細い紙ひもに顔をしかめながらも、先生は軽々と紙袋を持ち上げる。いつもさりげなくあたしの荷物を持ってくれる。エスコートとかも全然頑張ってるふうじゃなくって、自然でスマート。遊び慣れてるのかな、彼女がいないとかもウソなのかもって、ちょっと思っちゃったりもするときもあるんだけど。
「うん。オリエンテーションって言ってたかなぁ、なんかね、説明会があって。でもこんないっぱい教科書渡されるなんて思わなかった」
「数学、生物、化学、文学、歴史と……盛りだくさんだな」
 顔をしかめたあたしに先生は半笑いで頷くと、指先で紙袋を開いて中を覗き込んだ。端から順番に背表紙を確かめる、興味津々な横顔は素直でかわいい。
「でも、これでもまだ半分くらいなんだよ。残りは選べるらしいんだけど、ここのは全学部必須教科だって」
「教養は四十五単位、だったっけか? 確かにあれはな、結構な」
 つらいぞーって笑うその顔は、まるであたしが大変になるのを楽しみにしてるみたい。言っとくけど、あたしが泣きそうなときは先生だってヒドイ目に遭うのが決定なんだからね! とか、心の中でつぶやいてみる。そのうちきっと泣くんだから。泣いてもらうんだから。
「ホントにこれ全部やるのかなぁ。やだなー」
「そりゃそうだろ、って、うわっ、哲学に心理学もかよっ」
「読みたい? 貸してあげるよ」
「いらねーっ」
 苦いものを食べてしまった子どもみたいな顔の即答に笑ってしまう。イヤな思い出でもあるのか、眉をひそめたまま哲学と心理学の本を紙袋の底のほうにしまいこむと、先生は生物の本を取り出した。へーとか言いながら、ぱらぱらとページをめくっていく。
「入学式はあさってでね。なんか、式のあとに英語のクラス分けのためのテストがあるんだって。あたしなんかどーせ下のクラスってわかってるのに、テストやだなー」
「あー、そーだな」
 あたしの英語能力に関しちゃ確かに事実だけど、その同意のしかたってどうなのって文句を言ってやろうと思って顔を見ると、先生の視線はページに向かったまんま微動だにしない。どうやら本に集中してて、あたしの話もちゃんと聞いてないみたい。それはそれでちょっとむっとするけど、でも生物の教科書を熱心に読んでるのを見ると邪魔しちゃ悪いかなとも思う。担当教科が気になっちゃうのは仕方ないもんだろうし。
 立ったまま読み続ける横にそっと並んで、さっきまでの先生みたいに鉄棒に腰をもたせかけた。見るともなく見上げると、地面から突き出たビルの隙間から通りをはさんで、T字型の空が広がっていた。いつの間にか四月になっちゃったなぁ、そう言えばなんかバタバタしてて桜見そびれちゃったなぁ、でもきっともう散っちゃってるよねって、ぼーっと考えごととも言えないようなことを考えていると、『なぁ、春奈』って隣から聞こえた。
「んー、なぁに?」
 声に顔を向けたけど、でも先生は本に目を落としたままあたしを見ずに、あのな、とだけ言った。自分から呼びかけといてあたしを見もしないのって、普段の先生から考えると、なんかヘンなの。
「おまえさぁ、話、聞いたか?」
 奇妙な沈黙の間を置いて、ページをゆっくりめくりながら先生がそう言った。
「なにを?」
「そっか、やっぱ知らねーか」
 唐突に自分から言い出しておいてひとりで納得したように頷くけど、その言い方じゃ、もし聞いてたとしてもどの話なんだか全然検討つかないんですけど。
「あのな、仁がな。学校、辞めるってよ」
「え……」
 漏れたのは、ほとんど意味のない音だった。あたしが絶句したのを確認するように、先生がゆっくりと顔を上げる。横目であたしを見て、そしてなにも言わずにまた本へ視線を戻した。
「それって……どういう意味?」
「どうって、まんまだろ」
 興味なさそうに言いながら本を読んでるふりをしながら、先生はあたしを見ている。あたしがどんな顔をしてるのか観察してる。それはわかっていたけど、だからって取り繕うような余裕はあたしにはなかった。
 辞めるって、教師を辞めるってこと? それとも学校を変わるってこと? だったらなんで?
 ――まさか、なんかばれたとか……?
 無意識にぎゅうっと鉄棒を握りしめながら、音を立てないようにそおっと口の中に溜まっていたつばを飲んだ。
 で、でも、だったら即効あたしのところへ誰かが「話を聞きたい」とかって言ってくるもんじゃない? あたし誰にも言ってないし、なんにも訊かれてないし。だって、そんな。でも、もしかしたら。
「あー、そんなに心配すんなって。そんなんじゃねーから」
 あたしの顔を覗き込むようにしながら先生がくすっと笑う。本を閉じてそっと紙袋に差し込んでから、先生は大きく息を吐いた。
「バレるわけねーだろ。あいつは巧いことやってっから」
 くしゃっと髪をつかむようにあたしの頭をなでて、曖昧な笑みを浮かべたまま『それにな』と先生は言葉を続けた。
「もしヤバいことになっても、誰一人として口を割らねーだろうよ。あいつは悪くないって、どこまでもかばうんだろうぜ。おまえも含めて、全員がな。――なんでだろうな、ムカつくよな」
 あんな悪党もなかなかいねーんだけどな、とかブツブツ言いながら、先生は曲げた両ひじを背中のほうに突き出してゆっくりと胸を反らした。さっきまでお行儀よく収まっていた筋肉がぐうっとスーツの内側から盛り上がってきて、タイトなシャツのボタンホールを容赦なく左右に引っ張る。うわっ破けそうって思った瞬間に先生が深い息をつきながら腕をおろして、なんとかシャツは無事だった。でもほっと胸をなでおろしたのはあたしだけで、先生は服が破れそうになったことも全然気づいてないみたい。
「学校を辞めるって話はな、あいつの恩師がアメリカの研究所にいるんだが、その人がどうしても仁が必要だこっちにきてくれって言ってきてな。これも昨日今日の話じゃねぇ。二年くらい前から何回か相談を受けてた」
 え、でも、それじゃあ。
「途中で担当クラスを放り出せないから、卒業を待って行くことに決めた、ってさ。あいつは昔から研究者肌だったしな、あっちのほうが性に合うんじゃねーか」
 まさかあいつが教職取るとは誰も思わなかったぐらいだしな、なんてつぶやきながら先生は肩をすくめた。あたしが言うのもなんだけど、それは多分、趣味の問題じゃないの。大学とか研究室には女子高生いないしね。
「まぁ、それなら。うん。よかったぁー」
 小さく安堵の息を吐いたあたしに、先生はそっと探るような目をした。
「ホントにいいのか? もう会えなくなるぞ」
「んー、そうだねぇ……」
 先生の言いたいことはわかる。言ってくれてる、その気持ちもわかる。わかるけど、でも。
「もしあれだったら、これから会いに行くか? 片づけが残ってるって言ってたから、今ならまだ校舎にいるかもしれねーし」
「行って、どうすんの」
 確かに、もう一度会いたいってちょっとは思ってしまう部分もある。影からでいいから顔を見たいって気持ちもある。それは否定できないけど。
「だってそんなの、意味ないじゃん」
 もしも人生のやり直しが効いたとしても、あたしはきっとあの日の準備室に行く。抱かれるために。踏みにじられるために。だからなにも後悔してない。後悔なんてするはずがない。
「いや、あいつはその……おまえが来たら、喜ぶんじゃないかって、思う、けど」
 言いたくなさそうに言い辛そうにぽつぽつと言葉を続けるその様子は、不器用って言うか、なんて言うか。ムリすんなよって言いたげな、とってもムリしてる先生の顔に笑ってしまう。
「バカね、せんせは。そんなワケないじゃん」
 あたしはもう女子高生じゃない。制服を着てない。こんなあたしを先生が見るわけがない。冷たい横顔に唇をかむのはイヤだもんって思わず漏れた笑みに、先生が顔をしかめる。
「あの人はね、もうあたしのことなんて忘れてるよ」
 卒業式の最後の最後、イスから立ち上がってくるっとかかとを回したそのとき、目の前にその人はいた。退場する卒業生のために無表情のまま手を叩く、キレイな立ち姿があった。ほんの一秒か二秒だったけど、確かに目が合った。そのキレイで冷たいまなざしは今もくっきりと心の奥底に焼きついてて、思い出すと息が苦しくなるけど、でも。
「だったらもう、それでいいよ」
「え、あ……でも、なぁ……」
 複雑な表情であたしを見下ろす大きな影に笑いかける。先生はへの字に曲がった口をもごもごさせてなんか言いたそうに何度か口を開けかけて、そしてあきらめたように大きく息を吐いた。
「ね、そうでしょ?」
「んー……」
 その唇を尖らせた困り顔がおかしくて、あたしは笑ってしまう。
 ――ホントは、大好きだった。
 本当に心の底から大好きだったけど、でも今は「大好きだった」って言える。哀しいのは哀しいけど、つらいときだってあるけど、でもあたしは笑っていられる。
 平気になったのはきっと、先生がいてくれたから。ずっと先のことなんて今はまだわからないけど、でもこれからだって先生は一緒にいてくれるつもりみたいだし、だったら叶わない願いにいつまでも固執して、ひとりで傷つく必要なんてないはず。だってこんなにバカみたいなお人よしさんが、あたしのことを大切にしようとしてくれてるんだし。
 だから、これは妥協じゃない。ママと同じじゃない。ただほんの少し『好き』のかたちが違うだけ。だからもう、あの人は過去の人。とりあえず、あたしはそう決めた。
 そして今のあたしにとって、大切な人は――。
「それよりも、さぁっ!」
 荷物を持ってないほうの先生の手を両手で握って、ぶんぶんと振り回した。突然のあたしの行動に固まった先生に、ぶーっと唇を尖らせて見せる。
「お腹空いたよ、もう一時だよ!」
 お昼はとっくに回っちゃってるんだからって訴える。先生のびっくりした顔がおかしくて真ん丸の目がかわいくて、あたしはケラケラ笑ってしまう。ぱちぱちと忙しくまばたきをして首をひねってから、先生は確かにそうだなって頷いてくれた。笑顔はまだもうちょっと引きつってるけど、でも物わかりのいいふりをするよりずっと先生らしくって、そういうところもあたしは結構好き。
「それじゃ、どこ行く? なに食う?」
「どこでもいいよ。コンビニでなんか買って、ピクニック行こ」
 もう桜は散っちゃったけど。
「またコンビニかよ。たまには贅沢しろよ」
「選び放題食べ放題なんだから、充分贅沢だよー。いいじゃん別に、楽しいんだから」
 手をつないで街を歩く。それだけで幸せなんだって、教えてくれた。
「ねー、せんせっ」

 ――人を好きになるって、そういうことじゃない?

  -おわり-
2012/12/03
  おまけのあとがき
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