花を召しませ番外編
White HESH -1

『こんばんは、シズです。えーと、その、来週の金曜日……今月の十四日なんだけど。美雪さん、時間空いてる? 空きそうかな?』
 再生された留守番電話の、少し他人行儀な声に一瞬息を飲んだ。
 呼吸を止めたまま相手の言葉がどう繋がるのかと耳を澄ませる。彼の声がわたしに何を告げてくれるのかと、ただじっと耳を澄ませる。
『俺その日、店を早引けさせてもらえることになったんです。でも美雪さんの都合はどうかなーって。――えーとその。また、連絡します』
 留守電相手に話しているということもあってか、それは奇妙に曖昧な響きだった。それでも彼の言いたいことはわかった。今月の十四日はホワイトディだ。彼はその日に逢いたいと、デートをしようとわたしを誘っているのだ。
 仕事関係のゴタゴタのせいでバレンタインディが三日も遅れてしまった、しかも初めて挑戦した手作りチョコは大失敗もいいところだった、などの気まずいいきさつがあったにしても、好きな男性にホワイトディに誘われて浮かれない女などいないと思う。だからそのときのわたしもそうだった。
 折り返し電話を掛け、仕事中の彼とのほんの数分の打ち合わせで、ホワイトディデートの予定は成立した。待ち合わせ時間は夜の八時半、いつもの駅前ロータリー。遅れないように気をつけるけど、でもちょっとくらい遅れるかも、と申し訳なさそうに前もって謝る彼に、多少は仕方ないと余裕を見せて電話を切った。
 今年のホワイトディは金曜日だ。不夜城と称されるクラブの週末の賑わいはやはりレベルが違う。そんな日に早引けをするのは、彼なりに難しい問題をクリアしてのことだろうと思う。それがわたしのためだと思うだけで何より嬉しかった。
「あたらしい服買っちゃおうかな……」
 通話を終えた携帯電話をベッドに放り投げてから、意味もなくうきうきと部屋中を歩き回って呟いた。
 自分が美人ではないことは自覚しているけれど、でもたとえ少しでも驚きと喜びを感じてもらえるような、そして可愛いと褒めてもらえるような姿になりたい。今までの彼の行為を考えれば、服よりも下着に興味がありそうな気もするけれど、女が自分からあからさまにそういう下着を身に着けるのは恥ずかしい。彼と逢えばかならずセックスをすると決まっているわけでもないけれど、その確立は高い。そういう意味でも最低限の可愛らしさは必要だと思う。さりげなくセクシーで恥じらいがあって彼の気に入りそうな下着というのは、私にとっては少々ハードルが高い問題ではあるけれど、完全にムリというわけでもないだろう。給料日はまだ先でも、年末のボーナスが残ってるという事実が心強い。
「この際、頑張っちゃおうかなっ」
 新作春色ワンピースなんてどうだろう? 今年はレイヤード風が流行っているらしい。彼は気に入ってくれるだろうか。可愛いと喜んでくれるだろうか。目を細めるようにして笑う無邪気な笑顔を思い浮かべると、それだけでドキドキする。
 明日の仕事帰りにでも寄ってみよう。


 赤ちゃんを抱っこしたお母さんに電車内で席を譲り、人で埋め尽くされたスクランブル交差点の真ん中で困ったように立ち尽くしていた白い杖を持っていた若い男性を目的地まで案内したその日は、とてもいい一日の締めくくりができた。
 衿と袖口がシフォンの二重フリルで縁取られたシルバーグレイのワンピースと、ベージュにピンクのリボンが正面についた可愛いオープントウのパンプスが手ごろな値段で、しかも一件目に入ったお店で簡単に見つけられたこと、まだまだ寒い日があるからと前から欲しいと思っていたカシミアのストールの気に入ったきれいな色のものが半額セールで手に入ったこと、よく行くランジェリーショップのポイントが普段の二倍でちょうどポイントが貯まって千円券が手に入ったこと、夕食代わりにと偶然目に付いて入ったセルフサービス式パン屋さんのフランスパンのサンドウィッチが驚くほど美味しかったこと――、などなど。
 子どもの頃に母親によく言われた、いいことをすれば神さまは絶対に見てくれているのだからという叱責混じりの言葉は、もしかしたら本当に本当だったのかもしれない。そんなことを思いながらあたたかいカフェオレに口をつけ、大きくなってしまった紙袋の中からいろんな色のハートが水玉のように散った白い包みを取り出した。
 中身は、ベイビーピンク地に白抜きされた桜の刺繍の、ブラとショーツとキャミソールのセット。ショーツは二枚組みで、一枚は普通のデザインだけれど、もう片方はサイドがリボン状でほどけるようになっている。なぜそうなっているのかを考えれば手に取るのさえ恥ずかしくはあったけれど、それ単体で買うのはためらわれても二枚がそのようなセットになっていたのだから仕方ないと、誰にともなく奇妙な言い訳をして、ドキドキしながらレジカウンターに持って行った。そのときの気分を思い出しながら、赤いハートにリボンが掛かったデザインで封をした少し厚めのビニール袋をテーブルに置いて、残り半分のサンドウィッチにかじりつく。
 夜の八時少し前という時間帯だからか、パン屋さんの一角に設えられた細いカウンターに人はまばらだったけれど、さすがにこのような場で買ったばかりのランジェリーを取り出すのは問題がある気がする。袋の上から眺めるだけで我慢するのが正解だろう。指折り数えるほどのことでもない。ホワイトディはもうすぐなのだから。
 シズくん、喜んでくれるかな。
 そう考えた瞬間、思わず笑みがこぼれた。


 待ち合わせギリギリ二分前、なんとか遅刻なしで辿り着いたわたしの目の前には、可愛らしい軽自動車が停まっていた。手に入れたばかりのパンプスのかかとを鳴らして駆け寄り窓から覗き込むと、仕事のときのままの格好の彼がシートに背を深くもたせかけて眼を閉じていた。眉のあいだに深くしわが入り、きつく結んだ唇の端が歪んでいる。
 もしかしたら、彼はひどく疲れているのかもしれない。今日のこの時間を作るためにムリをしたのかもしれない。普通の金曜の夜でも忙しいのに、ホワイトディとなればクラブは大盛況だろう。そんな中で仕事を抜けてくるのは大変だったのだろう。
 そう思った瞬間、ノックの要領で窓ガラスを叩こうと軽く握った手を引っ込めてしまった。どうしようと意味もなく周囲を見回していると、目の前の窓ガラスがゆっくりと下がった。
「なんだ、もう来てたんだ」
 窓にひじを突き出すように軽く身を乗り出すと、彼は小さく笑った。その笑顔が少し力がないように見えて、なぜか慌ててしまう。
「あ。う、うん。ゴメンね、待たせちゃった?」
「全然」
 いつもより幾分かぶっきらぼうに言うと、彼はわたしをじっと見つめた。彼の視線がゆっくりと顔から胸元へ、そしてもう少し下へと下がっていくのがわかる。さすがにパンプスまでは見えなかったのだろうが、それでもわたしの全身を眺めてから、彼はくすっと笑った。
「可愛いね、今日のカッコ」
「あ、ありがと」
 今日のためにと選んだワンピースはどうやら間違いはなかったらしい。肩から掛けたピンクベージュのストールとの相性も、想像していたよりずっとよかった。
「乗って乗って。もう行くから」
「あ、うん。はい」
 うながされて、彼のイメージからは程遠い、丸いヘッドライトと鮮やかすぎるエメラルドグリーンの車体に乗り込んだ。
 マンボウやフグを連想させるちょっとぷくっと膨れたこの車は、彼の友だちの彼女さんが使っていたものらしい。何年かして買い換えるとき、この個性的な色が原因で下取り価格がひどく低く、それならばと中古車を探していた当時の彼に、相場よりも随分と安い値段で売ってくれたのだと聞いた。
 ゴメンね、こんなんで。美雪さん、隣に乗るの恥ずかしい? イヤ?
 初めて彼がこの車で迎えに来てくれたとき、あまりの色に立ちすくんでしまったわたしに、彼は申し訳なそうに俯いた。そのときの表情を覚えている。彼を愛しいと思った。その気持ちは今も変わらない。増えることはあっても、減ることはない。
 視線を伏せてサイドブレーキを解除する横顔を見つめていると、改めてそう思う。
「シズくん、どこ行くの?」
「んー? もうホテル入っちゃおうかなって思ってるんだけど。食事は部屋でもできるしさ、結構おいしいとこだよ」
 ゆっくり車を発進させて駅前ロータリーから国道に入ると、彼はだるそうに首を回しながら抜き出したタバコをくわえて火を点けた。
「あー」
 無意識なのだろうか、力のない声と一緒に白い煙を吐き出すと、彼はめんどくさそうな仕草でダッシュボードを引っ張り出した。強く指先で弾いてさして長くもなっていない灰を叩き落し、跳ねるようにその手を引き戻して唇の端に咥える。
 やっぱり、疲れてるのかな。
 肩をすくめて助手席に座ったまま視線だけを動かして、その横顔を見た。いつも明るい笑顔を絶やさない彼の少しすさんだ雰囲気に気圧されてしまう。とは言え、彼だって二十四時間常に笑っているわけでは決してないだろう。それに、彼がこんな態度を見せるのはわたしと一緒にいるときだけなのかもしれない。そう考えれば、それほどイヤだとも思わない。わたしに気を遣ってかえって彼が疲れてしまうくらいなら、不機嫌な横顔を見ているほうがずっといい。
 それでも、今の彼にどんな言葉をかければいいのか、それともおとなしく黙っていたほうがいいのかの検討がつかずに困ってしまうのも事実だった。窓の外を流れるイルミネーションに見とれているふりをして、苦い雰囲気に気付かない顔を続けるのが、ささやかながらわたしにとっての最良の選択だと思った。
 けれど、毎日パソコンに向かって数字を打ち込んでいるOLと違って、絶え間なく人と間近で接するような日常を送る彼にとって、わたしの演技など児戯に等しかった。
「居心地悪そうだね、美雪さん」
 ハンドルを握って真正面を見つめたまま、彼は呟くようにぼそりと言った。どんな嘘もごまかしも彼には簡単に見破られてしまう。今までにも何度かそう思ったことがあったのに、すっかり忘れていた。
「え……っ」
 ぼんやりとゆるみかけていた心の中心に鋭く針を打ち込む言葉に、息を飲んでしまう。そんな自分の反応が彼の問いを肯定してしまうのだと気付き、慌てて口を開きかけたわたしには、皮肉げな視線が向けられていた。
「俺と一緒って、つまんない?」
「な……っ」
 あまりと言えばあまりの言葉に、反論の声さえ出ない。絶句したわたしに彼はひどく鋭いまなざしを見せ、けれど次の瞬間にはそれが錯覚であったかように、弾けるような明るい笑い声を上げた。
「冗談だよ、冗談」
 美雪さんの驚く顔が見たかっただけ。
 悪びれもせずくすくす笑うと、彼は灰の長くなったタバコを灰皿に打ち付けた。
「俺と一緒でも、イヤじゃないんでしょ?」
「あ、あたりまえ、じゃないっ」
 なんとか搾り出した声に彼が肩を震わせて笑う。
「ひどい、シズくんっ」
 思わず抗議すると、彼はハンドルを軽く叩きながらのどをそらすようにしてなおも笑った。彼が疲れているみたいだからと気を使ったつもりの行動の一部を摘み上げてからかわれた、そのこと自体は決して嬉しくはないけれど、でも楽しげに変わった車内の雰囲気にホッとする。
「ひどいー」
「ごめんごめん。ちょっとね、拗ねてみただけ」
 上目遣いに睨みつけると彼は真顔になった。それでも口元に笑みは残っている。そのことに安堵しながら、わざとらしくそっぽを向く。
「美雪さんが変にそわそわしてるからさ、なんかやましいことでもあるのかなって思ってさ」
 やましいこと?
「そんなの、ないよ?」
 思わず眉根の寄ってしまったわたしに彼は軽く頷いた。
「だよね。美雪さんに限ってね」
「それって、どういう意味?」
 意味不明の彼の言葉に、問い掛ける声が無意識に低くなってしまう。訝しげなわたしの態度に気付いたのか、彼は短くなったタバコを灰皿で押し潰すように消すと、流すようにちらりとこっちへ視線を向けた。
「どう言う意味もこう言う意味も、そのまんまだよ。美雪さんに浮気なんかされたら、俺がまともじゃなくなるよってこと」
 相手の男、殺しちゃうかも。
 物騒な言葉を簡単に言うと、彼はくくっと低く笑った。
「浮気? 相手の男?」
 唐突に彼の口から出てきた言葉に首を捻る。
「わたしが? どうして?」
「だから、もしもの話さ。もしもそんなことになったら、ってこと。俺、自制する自信ないもの」
 話題とはうらはらに、おかしそうにくすくす笑う横顔がいつもと違うように見えてしまう。生温かい疑問が綿ぼこりのようにふわふわと心の中に舞い降りてくる。
「わたしにそんな人、いないよ?」
 わたしにはシズくんしかいない。

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