花を召しませ番外編
White HESH -6

「んー……?」
 ふうっと漂ってきたタバコのにおいに、ふと目が覚めた。ゆっくりと首を回して背後を振り返ると、淡いランプに照らし出された彼がそこに寝そべっていた。目を細めて白い煙を吐き出す少し気だるげな横顔に、脳内をゆったりと漂っていたもやのような眠気が吹き飛んでしまう。
 クッションに背をもたせかけ、足を長々と伸ばしてタバコを吸うその様子は、撮影中のモデルのようだった。どこも隠していない完全な素裸だと言うのに、おかしなほどいやらしくない。
「あ、起きた?」
 視線を感じたのか、天井を見つめていた彼のまなざしがわたしへと角度を変えた。左半分が薄闇に沈んだ唇の端が優しく吊り上がる。さっきまでの激しさがすべて嘘だったかのような笑顔になぜか安心する。
「うん。わたし、どれくらい寝てた?」
「そうだなぁ、三十分くらいかな。終わってふと気がつくと、もう寝てたよ」
 クスクス笑いながら短くなったタバコを灰皿に押し込むと、彼はじっとわたしを見つめた。
「え、な、なぁに?」
「腕、大丈夫? 痺れてない?」
 灰皿から戻ってきた手が薄い羽毛布団の内側にするりともぐりこんできた。大きな手のひらが寝転んだ猫のように胸の前で合わせた手首を優しく撫でてくれる。水仕事で荒れた指先が肌に少し引っかかる。それも普段の彼が懸命に仕事をしているからだと思うと、自分でも不思議なほどじわりと胸の奥が熱くなる。
「ん、大丈夫。全然痛くない」
「そっか」
 小さく頷く彼に笑い返してから自分でも手首を撫でる。そのときになって、いつのまにかわたしも裸になっていたことに気付いた。破れたパンストと下着、そして買ったばかりのワンピースを身に付けていない。それらを探してきょろきょろと周囲を見回し始めたわたしに、彼はどうしたのと声をかけてきた。
「えっとね、今日着てた服なんだけど……」
「ああ、あれ?」
 手首を撫でていた彼の手のひらがすうっと肩へと流れた。
「そう言えばあの服、俺初めて見たんだけど。買ったばっか?」
 わたしの思っていたことと全く違うことを言い出しながら、彼の手は肩から背中へ、そして腰へと落ちて行った。抱き寄せるようにウェストに回った手のひらが、指先に力を入れて腰骨をぎゅっとつかんだ。
「やっ、ちょっとっ」
 くすぐられるのとは少し違うこそばゆさに身をよじると、逃がさないと言わんばかりの力で抱き寄せられる。その強さに思わず彼を見上げてしまう。
「ね。買ったばっかりの服なの?」
「う、うん。そう」
 わかっているはずなのに、視線に乗せたわたしの疑問を完全に無視して彼は同じ問いかけを繰り返した。彼に気付いてもらうことを諦めて仕方なく素直に答えてもその様子は変わらない。微笑を湛えたまま半分が薄闇に沈んだ彼の目は、わたしを見ているような見ていないような、そんな奇妙な雰囲気があった。
「昨日の晩に買ったよ。それがどうかした?」
 会った時に可愛いと褒めてくれたから安心をしていたけれど、実は気にいらないデザインだったのだろうか。それともわたしには似合わなかったのだろうか。宛てのない奇妙な不安が胸の奥にもやもやと広がって行く。
「昨日? どこで?」
「どこって……浅谷だけど」
 そこは会社へ向かうために毎日乗る電車の乗換駅だった。
 駅前には、昔ながらの商店と最近流行りのものを扱うお店と、おじさんたちに人気がありそうなスナックや居酒屋が並んでいる。高速道路の高架に向かって少し歩けばお洒落なカフェバーといくつものファッションビル、それに銀行や会社やマンションがそびえ立っている。その奥の小道の先には、安いのがウリのラーメン屋や古本屋に混じって、恋人同士の密会場所としてのホテル街がある。学生も社会人も、そして少しわけありの人も集まる、清濁今昔が穏やかに仲良く融けた街だった。定期券を持っていることもあって、友だち同士との気楽な集まりによく名前の出る場所だ。勿論、彼とのデートで行ったこともある。
「そっか。浅谷で、昨日、ね」
 ふんふん、と頷きながらも彼は違うことを考えている。わたしの表情が変わらないかと観察している。それくらいはわたしでもわかる。
「シズくん?」
 少しだけ身体を引いて、その代わりのようにひじをついて上半身を起こした。リラックスしたように長々と寝そべる彼の顔を真正面から見つめる。
「言いたいことがあるなら、はっきり言って」
「別に、言いたいことなんて――」
 わざとらしいくらい自然な仕草で、欧米人のように両手を広げるポーズを取ろうとした彼の目を、真正面から覗き込んだ。 
「シズくん?」
 言葉を遮られた彼が気を悪くしたようにむっと唇を尖らせたけれど、今回ばかりはいくらわたしでも譲る気にはなれない。そんなわたしの決意が伝わったのか、彼は諦めたように小さく溜息をついて、そして少しだけ俯いた。
「えーとね、えっとー」
 どこか子どものような口調でそう言ってから、なぜか彼は言いよどんだ。何度か口を開いて、けれど声にならないまま困ったように息を吐く。
 ちくちくと厭味で突付いてわたしが怒るように仕向けたのは彼のはずなのに、なぜかその視線は戸惑っていた。わたしを真正面から見返すことさえできず、視界の端を行ったり来たりしている。珍しすぎるほど珍しいそんな態度に、わたしのほうが彼をいじめているような気さえしてきた、そのとき。
「あのさ。あの、昨日ね」
 思い切ったように顔を上げて彼がわたしを見た。
「その……。浅谷で、美雪さんを見かけたって人がいて」
「うん」
 それが優しい声に聞こえるようにと意識して頷いた。わたしのそんな返事に安心したのか、彼が小さく頷き返す。そのことに安堵したわたしの耳に届いたのは、とんでもない言葉だった。
「その人が、その……美雪さんが、男と、デートしてたって」
 言い難そうに何度も息継ぎをしながら、それでも彼はわたしを見つめていた。真っ直ぐに向けられた瞳の絶望的な暗さと、わたしの変化を何ひとつ見落さないと言いたげな鋭さに圧倒された。だから、問い返すようにそれ自体に全く意味のない音を口から出すのにさえ、ほんの少しではあったけれど時間がかかった。
「え?」
 首を傾げてパチパチとまばたきをする。
 男と、デート。
 ――誰が?
「だから! 美雪さんが、男と手を繋いで歩いてたって!」
 男と?
「スクランブル交差点を、知らない男と手を繋いで寄り添って歩いてたって……!」
 スクランブル交差点……?
「そうだよ! 誰だよ、その男っ!」
 男と手を繋いで、交差点……?
「だから、そうだって言ってるじゃん! ちょっと、俺の話聞いてんのっ?」
「聞いてるけど」
 聞いてはいるけれど、話そのものよりも普段とはあまりに違う彼に驚いてしまう。いつもどこか落ち着いた年齢相当以上の雰囲気をかもし出していたはずの今の彼は、まるで母親がいなくて寂しかったと訴え甘える子どもだ。かんしゃくを起こしたような言葉遣いに、歳が離れていたせいか、なかなか夕食の団欒の話題に入れず困っていた子どもの頃の弟を思い浮かべてしまう。ぼくの話も聞いてよ。そう叫んでいた弟は、あのとき五つか六つだった。
 ――なーんて思い出してる場合じゃなかった。
 そっと目を上げると、薄闇を透かすようにギラギラと光るまなざしがわたしに注がれていた。初めて見るその表情は、怖くてかっこよくて、そして不思議に愛しい。
「あのね、シズくん。それ誤解だから」
「誤解?」
「そう」
 オウム返しのその言葉に一つ頷いて見せる。
「確かに浅谷には行ったし、その、男の人と手を繋いでたってのもホントだけど」
「ホントなの? 誰だよ、その男っ?」
 語尾をひったくると、噛み付かんばかりの勢いで身を乗り出してくる。いつも落ち着き払っている彼がと思うとおかしさがこみ上げてくるけれど、今ここで笑ってしまったら収拾がつかなくなりそうだ。
「名前は知らないの。スクランブル交差点の真ん中で困っていたみたいだったから、わたしから声をかけたの。だってその人、白い杖を持ってたから」
「え……?」


 わたしの言葉から事実を理解した彼の表情に酸欠を起こすほど笑ってしまったけれど、それまでされたことを考えれば、多分そんなにひどくはないと思う。

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