メメント・アモル-1

「まだこんなの、取ってあったんだ……」
 押入れの一番奥でかわいそうなくらいほこりをかぶって転がっていた立方体は、あたしが小学校に上がる少し前に、お隣のヒロ兄ちゃんがくれた修学旅行のお土産のクッキーの空箱だった。でもこれはもう空っぽよと苦笑いするお母さんに、それでもどうしても欲しいと握りしめて駄々をこねて自分だけのものにして、他の宝物やお気に入りのおもちゃと一緒に大切に大切にしまいこんだ、あの日をふと思い出した。
「あたしにも、そんな頃があったねー」
 お兄ちゃんがくれたってだけでただの空箱が宝物だなんてさ。
 ボックスから引き抜いたティッシュでそっと表面を拭うと、さすがに十年が過ぎた紙箱はヨレヨレになってしまっていた。見慣れたネコのキャラクターは笑っているとも無表情ともつかないいつもの顔で、じっとこっちを見つめている。なんか見透かされているようで、ちょっと気に入らない。あんたみたいな人気者にあたしの気持ちなんてわかんないわよ、なんて、ちょっとやさぐれた気分で思いっきりゴミ箱に放り込もうとして、手が止まった。
「ま、いっか」
 少し考えてからあたしはほこりまみれになったティッシュだけを捨てて、箱の表面を指でなぞった。拭き残しのほこりが指先にへばりつく。
「これはこれで、思い出だし」
 指先をこすってほこりを落としながら壁の時計を見上げると、七時二分ほど前だった。外はいつの間にかすっかり日が落ちて暗くなっていた。もうそろそろかな。あたしがそう思ったのとほとんど同時に玄関のチャイムが明るく鳴った。一階のドアがバタンと乱暴に開いてお母さんの声が狭い廊下に響く。
「まゆちゃんーっ! 浩樹くんたちが来たわよー」
「はーい」
 階段を伝って、階下のにぎやかな声が聞こえ始める。お招きに預かりましてと、いつものように上品な挨拶をする隣のおばさんと、いいから座って食べましょと応じる、元気すぎるくらい大きな声のお母さんの声が響いてくる。
 今日はヒロ兄ちゃんのお祝いパーティだった。就職氷河期がささやかれる中で大手デパート系列会社に仕事が決まったってすごいことだし、お祝いの気持ちはもちろんあるけど、だからってお母さんみたいにはしゃいだりなんてできない。
 だってさ、だって――。
『通えない距離でもないんですけどね、でもまぁ、これも一つの機会ですから』
 一人暮らしをするんだとさわやかに笑って、いつものようにあたしの頭を撫でたヒロ兄ちゃんはきっと、あたしの気持ちには一生気づかないんだわ。
「まゆーっ! 何してんの、さっさとおいでっ」
 元気な分だけ気の短いお母さんが叫ぶ。お腹が減ってイライラしてるんだろう。早く行かないとホントに怒り出しちゃう。それはそれでやっぱり困るし。
「はぁいっ! 今行くーっ」
 思いっきり叫び返してドアに向かって一歩を踏み出した途端、ぐらりと足元が揺れた。うわっ地震だぁって思いかけて、でも部屋の中のものは何一つ動いていないことに気づいた。
 ――あれ、れぇ……?
 ぐるんと天地がひっくりかえって、お腹の底から一気にこみ上げてきた吐き気にしゃがもうとしたけれど、足元はどこにもない。いつのまにか閉じていたまぶたの裏がぐるんぐるん回って、手足が先のほうから消えて行くような、どこかに吸い込まれてしまうような、そして……。
「――……ゆっ、まゆっ!」
 びっくりするくらいすぐそばでヒロ兄ちゃんの声がした。いつも落ち着いてるヒロ兄ちゃんっぽくない、とっても慌てた声。声の方向に顔を向けようとがんばってはみるけれど、なんだか身体がだるくて重くて、手も足も全然動かない。
「まゆ、大丈夫か? まゆっ」
 あたしの手を大きな手がぐうっと握っているのがわかる。ヒロ兄ちゃんの声しか聞こえないし、これってお兄ちゃんが手を握ってるのかな。なんでだろう、ヘンなの。だってヒロ兄ちゃんはいつだってあたしのことなんか子ども扱いで全然そういうんじゃなくて、がんばってバレンタインのチョコを手作りしても、笑顔でありがとうって言ってくれるけど、でもそれだけだったのに。
「まゆっ!」
 糊でしっかりと貼り付けた紙同士を剥がすように、ゆっくり開けたまぶたの隙間から、痛いくらいにまぶしい光が差し込んでくる。そこに誰かがいることだけはわかるけど、強すぎる光のせいで真っ白の影になって、顔なんか全然見えない。
「まゆ! よかった、よかったなぁっ!」
「あ、う……?」
 ぐうっと抱きしめられても状況がわからない。目を細めて眉を寄せて、やっとそこにいるのがヒロ兄ちゃんだと確認できて、でも。
「ヒロ、兄ちゃ……」
「よかった! もう大丈夫だぞ、まゆ。待ってろ、すぐにお医者さん呼んでくるから」
 叫ぶようにそれだけを言って、ヒロ兄ちゃんはバタバタと駆け出してしまった。光に目が慣れてきて、ぼんやりとだけど少しずつ周囲が見えてくる。白い天井と白い壁、白いカーテン。そして、どうやらベッドに寝転んでいるらしい、あたし。
 ――なにがどうなってんの……?





「着いたよ、まゆ」
「あ、はい」
 車から降りたヒロ兄ちゃんは、入院中のあたしの荷物が入った大きなボストンバッグを後部座席から引きずり出して軽々と持ち上げると、ドアロックをしてからくるりと振り返った。どうしていいかわからず立ち尽くすあたしの手を当たり前のように握る。一瞬固まったあたしのことは気にせず、ヒロ兄ちゃんはマンションの駐車場の床に黄色のラインで描かれた横断歩道のミニチュアの上をすたすたと歩き出した。
「ほら、こっち」
 軽く腕を引っ張られて、慌ててその背中を追った。横に並んだあたしを見て、ヒロ兄ちゃんがくすっと笑う。反射的に笑い返してから前を見るふりでそっと視線を外した。
 ――なんか、ウソみたい。
 スーツを着てネクタイを締めたヒロ兄ちゃん。走るのに邪魔だからって理由で短くしていた髪が全体的に長くなって、授業中だけは必要だって話に聞いていたメガネをずっとかけてるから、あの頃とは印象が違う。すごくおとなっぽくて、カッコイイ。
 ――それに比べて、あたしったら……。
 鏡を覗き込んだときの、全然変わってない自分にがっかりしたあの瞬間を思い出すと足の力が抜けそう。実際そのときは、あまりの落胆にヘナヘナと床に座り込んでしまったくらい。それを勘違いしたお母さんがムダに騒ぎ立てて、助手さんや看護師さんがわらわらと入ってきて心電図だ脳波だと上の下への大騒ぎになってしまった。本当のことを知ったみんなの溜息にあたしは立つ瀬もなかった。まぁ、お母さんの性格がまったく変わってないのには、逆にちょっと安心したけど。
「さぁ、まゆ。おいで」
 駐車場から入る荷物搬入用みたいなやたらと大きなドアを抜けて、シャンデリアの飾られた天井の高いムダにゴージャスなエントランスを通って、ちょっと小さめのエレベーターに乗って、五階の十五号室。あたしとヒロ兄ちゃんの『新居』だと言う部屋は、日当たりのいい広いリビングと憧れのカウンターキッチンがあった。
「わー、うわーっ!」
 天井から床までの大きな窓と、薄いピンクのミニバラがツタに絡まったように縦に細く伸びるデザインの、レースの白いカーテン。小さな丸いカフェテーブルと、おそろいの椅子。オレンジのカウチソファーに、トイプードルの毛みたいなふわふわのアイボリーのラグマット。壁に並んだスチールと白木のオープンラック……。
「か、かわいーっ!」
 うそ、なにこれっ! かわいいかわいい、超かわいいっ!
「だろ? これ全部、まゆが選んだんだよ」
 ボストンバッグを床に置くと、ヒロ兄ちゃんはオープンラックに並んでいた写真立てからひとつだけ手に取った。
「ほら見てごらん、まゆ」
 映っていたのは、真っ白のドレスを着て笑うあたし。
「きれいだろう? こっちは二人の写真。きれいに撮れてる、さすがにプロだって、まゆはすごく喜んでたんだよ」
 白いドレスのあたしと、シルバーグレイのタキシードを着たヒロ兄ちゃん。手を握り合って指輪を見せるポーズをする、ちょっと照れた顔のあたし。
「これは新婚旅行のときの写真。まゆの希望でイタリアへ行ったんだよ。まゆはイタリア語学科だったから。あ、それも覚えてない?」
 意外なくらい明るく訊かれたから、逆に申し訳なくって。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないさ。こっちはローマ。これはフィレンツェ、かな。それで、これがヴェネチア」
 笑顔を絶やさず説明をしてくれるヒロ兄ちゃんの顔を見る勇気がなくって、あたしは大きなコルクボードに何枚も貼り付けられた、写真を示す長い指を見つめた。絵葉書みたいな外国の風景をバックにして、見てるほうがちょっとイラっとするくらい幸せそうに笑っているあたしを指す左手の薬指には、シンプルな指輪が嵌っていた。
「そしてあれがね、記念にって買ってきたベネチアングラス」
 ちらっとヒロ兄ちゃんが目を向けたオープンラックの二段目。淡いブルーの上を金色のラインで複雑な模様を描いた、いかにも高そうな細長いグラスが二つ、胸を張るように誇らしげに並んでいた。
「工房を見に行ったときにまゆが気に入ってね。記念日にだけ使うから、普段はあそこに飾ってあるんだ」
 そう言うと、ヒロ兄ちゃんは手を戻しながらあたしの顔を覗き込んだ。レンズ越しの物問いげなまなざしがあたしをじっと見つめる。ヒロ兄ちゃんが何を考えているのか、あたしがどう応えれば一番いいのか、それは痛いくらいわかっていたけど、でも。
「ごめんなさい。あたしホントに全然、覚えてない……」
 お医者さんは、退院が決まってからも、多分とおそらくはを自信なさげに繰り返していた。お母さんはアクセルとブレーキを間違えるなんてと事故の相手にものすごく怒って、それでもまぁ無事でよかったじゃないかとなだめるお父さんに、全然無事じゃないわよと噛み付いていた。ほのぼのと言うには騒がしい二人に苦笑いしながら、ヒロ兄ちゃんがあいだに入る様子は普通すぎて、あたしはまだいろんなことが信じられない。わからない。あたしの記憶が七年分もなくなっちゃった、なんて。
 ホントに、あたしとヒロ兄ちゃんは結婚したの? だってお兄ちゃんなんてあたしのことを全然女の子扱いしてくれなかったのに。どんなきっかけがあったの? どんな言葉でプロポーズされたの?
 大好きなヒロ兄ちゃんとの結婚なんて、あたしはどれくらい嬉しかったんだろう……?

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