メメント・アモル-2

「まぁ、いっぺんにあれこれ言ってもムリだよな」
 うつむくあたしに明るく頷くと、ヒロ兄ちゃんは手の中の写真を棚にそっと戻した。丁寧に角度を調節する様子に、この写真はヒロ兄ちゃんにとって大切なものなんだなってことがわかる。そこに映っているのはあたしなんだから、素直に喜んでもいいことだと思うけど、でも。
「焦っても仕方ない。普通にのんびりしていれば、きっとそのうち思い出すよ」
 がっかりしてるんだろうに、そんな素振りは全然見せずにヒロ兄ちゃんは笑ってくれる。返す言葉も見つからなくて、あたしは下唇を噛んだ。
「そんな顔しなくていいよ。まゆが悪いんじゃない。まゆは被害者なんだ」
 大きな手が頭をなでてくれる。そっと目を上げると、そこにあったのは、あたしの知ってるままの優しいヒロ兄ちゃんの笑顔。
「そうだ、疲れただろう? ちょっとゆっくりしよう。お茶でも淹れるよ。まゆの好きなローズヒップティがあるよ」
「え、あ……ありがと」
 キッチンへ向かった後ろ姿をぼーっと見送りかけて、慌てて後を追いかける。あたしに気付いたヒロ兄ちゃんが振り返った。冗談めかした顔で伸びてきた両手があたしの両肩にぽんと置かれる。真正面から抱き寄せられるようなカッコにドキッとした瞬間に、ヒロ兄ちゃんの腕の中で身体がくるっと回転した。百八十度方向転換して背中を押されて、元の場所まで戻されてしまった。
「いいからいいから。まゆはちょっと、そこで座って待ってな」
「え、あ……う、うん」
 そっか。手伝おうにも、あたしはどこにカップをしまってあるかすらわからないんだっけ。
 仕方なく、ムダにドキドキした胸を押さえながら言われたとおりおとなしく待つことにして、ソファの隅にちょこっと腰を下ろした。動くのに邪魔なのか汚れたら困るからか、脱いだ上着を椅子の背にかけてからキッチンに入る、すらっとしたヒロ兄ちゃんの後ろ姿を見送る。慣れた手つきでお茶っ葉やマグカップを用意する様子がカウンターの隙間から見えた。どこに何があるのか全部把握してるっぽい迷いのない動きからすると、どうやらあたしは普段から家事をかなり手伝ってもらってたみたい。ごめんなさいって謝ったあたしに、メープル色の木製のトレイを両手で持ってこっちに戻ってきたヒロ兄ちゃんは『それは違うよ』と笑った。
「家のことは二人でするのが当たり前だと思ってるよ。俺も一人暮らしはしてたから、別に苦にならないしね」
 言いながら、ヒロ兄ちゃんはソファー前の低いテーブルにトレイを置いた。行儀よく並んだお揃いのマグカップは、デザインと色使いが少しずつ違う。
 あぁ、そう言えば、お兄ちゃんは一人暮らしするって言ってたっけって頷くあたしの目の前に、薄いピンクの液体で満たされたマグカップがコトンと置かれた。
「はい、こっちがまゆの」
 もわりと湯気を放つ白い円筒形の上には、お花の上でミツバチが二匹並んで休憩してる絵がクレヨンみたいなやわらかな線で描かれていた。
「あ、ありがと」
「どうしたしまして」
 軽く肩をすくめながらトレイに残ったマグカップを取り上げると、ヒロ兄ちゃんはあたしのすぐ隣に腰を下ろした。体温が伝わりそうなくらいの距離に鼓動が早くなる。
 ちらっと手元を見ると、ヒロ兄ちゃんのマグはクローバーの上を一匹のハチが飛んでるデザインで、確かにあたしだったら今使ってるのがかわいいって主張しそう。部屋に置いてある家具とかもそうだけど、あたしの好みが今とそれほど変わってないみたいで、そういうのはちょっと安心する。
 両手でくるみこむようにマグを持ち上げて一口だけこくりと飲んだ。ふわっと上がる甘酸っぱい香りは確かに好きだけど、でもお砂糖を入れて甘くしたほうが好きとか言うと、子ども扱いされちゃいそう。『あたし』はこの味がおいしいって思ってたのかな?
「ん、なに?」
 マグに口をつけたままそぉっと横目で見ていたのがバレたのか、ヒロ兄ちゃんは笑うのをガマンしてるような顔でこっちを見た。
「ううん、なんでもない」
「ウソつけ」
 あたしの返事を短い言葉で否定すると、ヒロ兄ちゃんは口元の笑みを消した。ふっと小さく息を吐いてマグカップをテーブルに戻して、ゆっくりとあたしを見た。
「そんな顔してないで、言ってごらん。答えられるだけ答えてあげるから」
 あたしをじっと見つめながらカウチに背を預けて、長い足を組む。こんなにすぐそばにヒロ兄ちゃんがいてあたしを見てるなんて、もうそれだけでドキドキして落ち着かない。レンズ越しに見つめられると、お茶してるさいちゅうのはずなのにのどがカラカラに乾いてくる。
「まゆが覚えてるかどうかは関係ない、とまでは言わないけど、でも俺たちは夫婦なんだ。そりゃ、突然のことで受け入れにくいかもしれないけど、それでも俺はこれからも夫婦であり続けたいし、そうできるように努力するつもりだよ」
「う、うん……」
 組んだ指をひざの上に置いて、怖いくらいまじめな顔で見つめてくる。記憶にある限り、今まで真剣な顔したヒロ兄ちゃんと真正面から向き合うなんて状況は全然なかったから、どうしていいかわかんない。
「えっと、それはその……」
 あたしの知ってるヒロ兄ちゃんは大学生だったから、ここまでネクタイは似合わなかった。髪は短かったし、メガネもかけてなかった。あたしが今年二十四歳って話だったから、ヒロ兄ちゃんは三十歳になっているはず。もともと落ち着いてる人だったから、ものすごく印象が変わったってわけでもないけど、でもよく見ると違う。当たり前だけど、やっぱり違う。ここにいるヒロ兄ちゃんは、あたしが知ってるヒロ兄ちゃんとまったく同じじゃない。
 ――でも、じゃあ、あたしは……?
 ヒロ兄ちゃんが好きだったあたしは、きっと高校生のままの今のあたしとは違う。残念ながら見た目はほとんど変わってないけど、それでもちゃんと大学に行ってイタリア語の勉強していた。結婚して辞めちゃったけど、小さな司法書士事務所の事務員の仕事に就いてたって教えてもらった。これって、結構ちゃんとした社会人だよね。高校生のあたしは自分で言うのもなんだけど、ちょっと怠け者だった。でもそれ以後のあたしはどうやらそこそこ頑張ってたみたい。だから多分ヒロにいちゃんは……。
 そこまで考えた瞬間、どくんとイヤなカンジに心臓が鳴った。
 ――もしかしたら、今のあたしは、ヒロ兄ちゃんの好きな『あたし』じゃない?
「お兄ちゃんは、なんであたしと結婚したの?」
 ヒロ兄ちゃんはどんな『あたし』が好きなの? 『あたし』のどこが気に入ったの? あたしはどうやったらヒロ兄ちゃんの好きな『あたし』になれるの? そんなことが訊きたくて口をついた言葉は、我ながら選択を間違えていた。
「なんだ。唐突だな」
 おかしそうにくすっと笑ったその表情は、まず間違いなく、あたしがホントに訊きたいことが伝わってるとは思えない明るいものだった。
「まゆは忘れてるから違和感があるかもしれないけど、まぁいろいろとあって。でも俺だって、まゆのことはかわいいってずーっと思ってたんだよ」
「そんなのうそっ」
 だって、ヒロ兄ちゃんは中学生の頃から彼女がいた。それをあたしに見せ付けたりもした。今でも忘れてない。ヒロ兄ちゃんと手をつないで歩くお揃いのブレザーを着た髪の長い女の人が、あたしの声に振り向ったときの余裕の笑顔を。
「ウソじゃないって」
 そんな大昔の話よく覚えてんなって溜息混じりにこぼしながら、ヒロ兄ちゃんはカリカリと頭を掻いた。
「それは高校生のときの話だろ。もう十二年も経ってんだから時効だって。俺は三年前からまゆひとすじなんだぞ」
 ――三年前……?
「そう、三年前。覚えてないのはまゆのせいじゃないから、そのことは気にしなくていい」
 手を伸ばしてマグカップを引き寄せると、お兄ちゃんは冷め始めていたローズヒップティをごくごくと半分ほど飲んだ。
「そんなに知りたいのなら教えてあげるよ、その辺の事情ってやつを。どっちにしてもいずれはわかることだから、先のことを考えたら早いほうがいいかもな」
 独り言みたいに言うと手にしていたマグをテーブルに戻した。跳ねるようにソファから起き上がるとあたしを見た。
「ほら、まゆも」
「えっ」
 どうしてと思う暇もないまま、大きな手がまだ充分中身の残ってるあたしのマグを奪った。テーブルに二つを並べて置いてからヒロ兄ちゃんが振り返る。
「これはまゆのお気に入りだからね。割れたりしたら悲しいだろう?」
「え、あ、ちょ、ちょっとぉ!」
 意味不明の言葉に首をひねる暇もなく、身を乗り出してきた長い腕に抱き寄せられた。慌てるあたしに普段と同じような笑顔を向けながら、ヒロ兄ちゃんはあたしを抱いたままゆっくりとソファに背中を沈み込ませる。
「三年前の春先頃だったかな。いつものように俺の住んでたアパートへ遊びに来たまゆが、ある日急に、あたし彼氏ができたのって言ったんだ」
「えっ……?」
 ドクドクと鳴る鼓動がうるさくて、この状況にもかかわらずとても静かな声はよく聞こえない。その発言内容が唐突過ぎて意味がわからない。目をぱちくりさせるだけのあたしをじっと見て、ヒロ兄ちゃんはくすっと笑った。
「俺も最初は、よかったねって言ったよ。そしたら調子に乗ったのか、まゆは次々とその男のことを話し始めた。相手は大学の講師の先生だからみんなに内緒なんだけどって言いながら、キラキラした目で、二回目のデートでキスをした、一昨日は身体をさわられた、次のデートでは初体験しちゃうかも、なんて、浮かれててね」
 ――信じられるかい?
 のどの奥で低く笑いながらヒロ兄ちゃんはあたしの頭を撫でた。髪を指に軽くつまんで、すうっと滑らせる。耳に当たる指先の感触にぞくっとする。
「ついこないだまで俺のことを好きだって言ってくれてた、妹みたいに大切に思ってた子がだよ。俺より三つも年上のヤツとそんなことをしてるなんて、赦せると思うかい?」
「え、あ、いや、その……」
 記憶がないから実感はできないけど、確かに、あんまり人に言っていいことじゃないってことだけはわかる。女の子同士の恋愛相談とかならともかく、男の人に、しかもヒロ兄ちゃんに言うなんて、何考えてたのあたしーっ!
「それで、俺は逆上したんだ。まゆからすれば勝手な言い分だったろうけど、大切にしていたものを横から掻っさらわれたような気がしたんだな。まゆがそいつのことを今も覚えてたらもっとわかりやすかったんだけど、まぁいいか」
「えっ? あっ、やぁっ!」
 抱きしめられたままガクンと上半身が落ちた。よく見てなかったからわからなかったけど、これはフルリクライニングのソファだったみたい。背もたれが倒れた分、座面が倍ほどの広さになって、そして。
「なっ、ちょっ、ちょっとっ」
「本当は、何日かは我慢するつもりだったんだ。俺を煽ったまゆが悪い」
 軽く肩をすくめると、ヒロ兄ちゃんは外したメガネをテーブルに投げた。かちゃんと音を立てて転がって行く方向さえ確認せず、あたしの両肩を乱暴にソファに押し付けた。
「さぁ、あのときの再現をしようか」
「あ、やっ! んん……っ」
 笑みを浮かべるドアップに耐え切れず目をつぶった瞬間、やわらかなものが唇を塞いだ。ぬるんと入り込んでくる舌が歯ぐきの裏をなぞる。胸を押し返そうと上げた手は簡単にひとまとめにされた。足をバタバタさせて逃げようとしたけれど、その隙間にひざが入り込んできて、腰から下も動かせなくなる。スカートの上から身体をさわられて、全身の毛が逆立つような気がした。
「ヒロ兄ちゃん、なに、を……?」
「なにって、キスだよ。まゆは忘れてるからね、もう一度、順番に教えてあげる」
 ――俺のことをね。
 言葉の意味がわからず呆然と見上げるあたしに爽やかな笑顔が降ってくる。ヒロ兄ちゃんは、あたしの両手を押さえつけたまま空いた左手でネクタイを引き抜いて、それを手首に巻きつけて、そして。
「ちょ、ちょっ、ちょっと、待って!」
「可愛いよ、まゆ」
 耳のふちをヒロ兄ちゃんの舌が這って行く。ちゅっと音を立てて耳たぶを吸い上げられると背中がぞくぞくした。うなじから首、鎖骨のラインへとキスを続けながら、強い力がカットソーのすそをスカートから引っ張り出した。剥き出しになったお腹を大きな手が撫でる。抵抗しようにも、強い力に押さえつけられて手も足も動かない。背中に回った指先がブラのホックをつまむ気配がした。

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